知識の陰で失われてゆくもの

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 10月号)


 昨年の夏、私はある雑誌に、アメリカスポーツ医学会の参加 の仕方についてのガイド記事を書いた。それまでに何度か参加 した経験をもとに、申し込みのやり方とか参加する際の注意事 項について記したものだ。ちょうど、『地球の歩き方』のよう なガイドブックのような情報が伝えられるといいなと思ってい た。まあ、私の記事がどの程度利用されたかは不明だが、この 手のガイドブックは昨今の流行のようだ。大学新入生に向けた、 授業の選び方や試験対策についてのパンフレットもこの類のも のだろう。

 私も、最初の海外旅行では、『地球の歩き方』をずいぶんと 参考にさせてもらった。もちろん、当時は充実したような気に なっていたが、今から思うとずいぶんと薄っぺらな旅だったよ うな気もする。おそらく、この手のガイドは、先達の経験を踏 まえて、より充実した時を過ごすためには貴重なものであろう。 しかし、その反面、満載されている情報に振り回されて、新た な発見の機会を失わせてしまうという側面も併せ持っているこ とだろう。

 ところで、科学にもこれと似た側面がある。もちろん、科学 の目標は理の発見であり、先人たちの成した研究成果を踏まえ て新たな理論を完成させるのは科学の醍醐味でもある。しかし、 先人たちの研究はあまりにも多すぎるのである。ときとして、 論文の山に埋もれているだけでわかったような気になってしま い、自らの発見の喜びを喪失してしまう場合もある。つまり、 知れば知るほど良いというものでもないみたいなのだ。

 また、自分の発見を他人に知らせることも科学者の役割なの だが、なんでもかんでも調べ挙げて人に伝えるというのも、必 ずしも良いことばかりとは限らない。特に、個人的な問題につ いてはそうだろう。ひとはだれでも、他人に知られたくないこ とを一つや二つは持っているものだし、末期の癌患者にとって は本当の病名を知らされない方が幸せな場合も多い。『人』に とって知らない方が幸せなことがあるのならば、『人類』にとっ て知らない方が幸せだということがあってもおかしくはない。

 アインシュタイン博士がアメリカのルーズベルト大統領に宛 てて、原子爆弾の開発・製作を促進するように働きかけた手紙 を送ったとき、彼は確かに、『人類にとって知らない方が良かっ たこと』を暴露させてしまったのだろう。博士は後にそのこと を後悔したそうであるが、究極の叡知を極めるレベルにおいて も、知るべきことと知らせざるべきことを見極めるバランス感 覚が必要だということだろう。

 話は大きくなってしまったが、スポーツの世界にも、科学や 知識に対する無条件の信仰を抱いている人が多いようだ。「メ ダルをとるためには科学的なトレーニングが必要だ」などとい うような言い方の中には、科学に対する一方的な賛美が感じら れるし、「様々な研究成果を積み重ねて、競技力の向上に資す る」などという見方には、知識の集積に対する無条件の畏敬の 念があるように思われる。本当に、研究を積み重ねることが良 い結果を生むのだろうか。

 競技スポーツにたずさわる人々の中には、スポーツ科学とい うものは競技力の向上に役立たなければならないと思っている 人もいるようだ。でも、科学というものはいつもいつも役に立 つというものではないし、同じ研究結果でも、見方によっては 役に立つ場合も害となる場合もある。原子力エネルギーの話は その一例であろう。

 確かに、スポーツ選手にとっては、疲労を取り除き元気が湧 き出てくるような薬や、筋力トレーニングの効果を高めるよう な食料品があれば有難いだろう。そして、薬が効くかどうか、 どのようにしたら筋力が強くなるのかということは、科学が明 らかにしてきたことでもある。これは、一面では好ましいこと ではあるが、使い方を誤ればドーピングのような弊害を生じさ せることにもつながりかねない。

 科学が単なる知識の集積にとどまるのであれば、ドーピング 問題に進展することはない。しかし、科学は実世界から独立し たものではありえないのだ。純粋な知識は価値観とは無縁なも のといえるかも知れないが、科学によって探求された知識が科 学者の世界の中だけで回遊するということはありえない。科学 者は常に、それが役立つかどうかあるいは好ましいかどうかと いうことを念頭において研究を進めているはずだし、その結果 としての知識は、ある特定の価値観あるいはイデオロギーのも とでしか判定できないのである。

 ところで、科学的な知識に裏付けられた論理的な認識は、あ いまい模糊とした現実を一刀両断に切り分ける。しかしながら、 その分け方は、決して普遍的なものではない。それは知識の刃 の準拠する価値観によるものであって、別の分け方の存在を否 定するものではないのである。しかし、「科学は普遍的なもの である」という認識があまりにも深く浸透しているために、ま るで、科学的な切り方以外が正しくないかのような思い込みを する人さえ出てくるのである。これは、スポーツと科学の双方 にとって、必ずしも好ましいことではないだろう。

 先々月のこの覧で、私は、「スポーツが科学を求めるときに は、その合理的な思考あるいは分析的な理解の陰で、スポーツ の持つ一つの貴重な側面を切り捨てる可能性がある」というよ うなことを述べた。勝利への道が克明に記されるとしたら、そ れはすばらしいことかも知れないが、逆の言い方をすれば、そ れは勝利を目指す「他の道」を塞ぐことになるということを言 いたかったのだ。もしも、最良の道が一つだけ見つかったとし たら、その道以外が閉ざされて、スポーツは画一的になってし まう。スポーツ科学における「究極の発見」がスポーツの多様 性を喪失させるのである。そんなことはありえないと思う方も いるかも知れないが、少なくとも、「トレーニングによって強 くなれる」という[知識(傍点あるいは太字)]は、トレーニ ングする余裕のない人を競技の世界から疎外しているに違いな い。

 スポーツは科学にとっては単なる対象の一つである。その対 象に関する深い造詣は、スポーツ文化の創造の一助となること は確かだろう。しかし、だからといって科学的な知識が無条件 に肯定されるというわけではない。科学がクリアにしていくの は科学的スポーツ観なのであって、それはスポーツの本質とは 限らないのである。

 知識は「宝」のようなものだ。多くの人はそれを求めるけれ ども、その陰で失われるものがあることにはなかなか気がつか ない。だからこそ、知識を提供する科学者は慎重にならざるを 得ない。なぜなら、科学者が明らかにしていく知識は、単なる 「知識の遊戯」だけでは済まされないからである。科学的知識 をスポーツの現場に応用しようとするとき、知るべきことと知 らせざるべきこと、あるいは、やるべきこととやらざるべきこ とのバランス感覚が保たれていなければ、科学という名の鋭利 な刃でスポーツそのものを切り刻む可能性も生じてくるのであ る。「科学の時代」ともいわれる現在、このようなバランス感 覚は、スポーツの科学者に求められる倫理の一つともいえるか もしれない。


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