Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 11月号)
ところで、私の理屈好きは素人の域を超えている。私の妻に 言わせれば、「テニスに行っても考えながら球を追っている」 のだそうだ。私の場合、考えることが仕事なのだらからしょう がないと割り切っているのだが、でもやっぱり、理屈は不利な のである。なぜならば、理屈を言うためには文字にするか言葉 にしなければならないからだ。
文字というのは、「上から下へ、あるいは、左から右へ読む」 というふうに順番が決まっていて、どこからどういうふうに読 んでも意味が通じるものなんてないのだ。つまり、平面上に広 がっていても、じつは一直線に並んでいるのと同じことで、あ る瞬間にたくさんの文字が同時に伝わるということはありえな い。また、言葉も、発音する順番があるから理解できるのだし、 口が一つしかない以上、情報伝達のチャンネルは一つに限られ る。したがって、情報を伝えるのに要する時間は、情報量が多 くなるほど長くなる。当然のことながら、一瞥しただけで感動 できる小説などあるはずがない。
ところが、絵の場合は違う。平面上に広がる一枚の絵につい て、「どこから見始めてどこで終わる」というような順番はな いし、小説と違って、パッと見ただけで大きな感動の渦に巻き 込まれてしまう場合だってあるだろう(もっとも、私にはその ような経験はないのだが…)。一瞬の演技に感動する場合のあ るスポーツも、絵と同様の性格を持っているのであろう。
絵と文字の違いは、情報伝達のチャンネルの違いとして説明 できるだろう。絵を見るときのチャンネル数が、文字に比べて ものすごく多いからだ。そしてこれは、「直列」と「並列」の 対比とみなすこともできる。
もともと、眼の神経は数が膨大であり、網膜に映った平面上 の情報をいっぺんに処理することができる(並列処理)。とこ ろが、文字や言葉の情報では、前後の順番が決定的な要素であ るために、せっかくたくさんの視神経を使っても、最終的には 逐次に処理(直列処理)しなければならず、時間がかかる。お そらく、言語は「口で伝え、耳で聞く」ことから始まったため に、たった一つのチャンネルを有効に使えるように発展してき たからだろう。しかし、記録したり、整理したりするときには、 この時間のかかる直列処理には大きな利点がある。順番がはっ きりしているし、チャンネルが少ない分だけ情報が圧縮されて いるからだ。この利点が、理屈を生み、数々の科学理論を生み だしてきたのである。ただ、残念ながら、絵画や音楽などの芸 術に比べれば、情感の伝達には不向きだったのであろう。
ところで、以前、「経験と勘」の話(5月号)の中で、「コー チから選手に伝えられるスポーツの指導は、定性から定性への 指令である」と記した。そこでは、コーチの経験と科学的分析 との関係を「定性」と「定量」という言葉で対比させたのであっ た。これは、今回の「並列」対「直列」の関係と同等である。 すなわち、実験科学が行う定量化は直列表現につながり、コー チによる定性的な指導は並列的情報伝達の一形態だということ である。
もちろん、この両者が全く相入れない別個の表現形態である ということではない。なぜなら、コーチの指導も、そのほとん どは「言葉」を介して行われているからだ。しかし、その「言 葉」のもつ「客観性」は明瞭に異なる。
まず、科学者は、自分の主張を万人に伝えたいと思うから、 なるべく誤解の無いように言葉の客観性を高めようとする。し かし、客観性を高めようとすればするほど、その言葉が意味す る「漠然とした概念」が削り落とされてしまい、共通の前提と される理論あるいは「理屈」に頼らざるを得なくなる。これに 対して、スポーツの指導はもともと万人を対象としたものでは なく、具体的な状況に即してなされるものであるから、そこで 使われる言葉には客観性は求められない。だから、一本気に 「理屈」だけに頼る必要はなく、時として「情」に訴えた表現 行為も可能となる。
もともと「言葉」は、伝達しようとする概念が符号化された ものであるから、それがグループ間の暗号であっても構わない わけだ。「あうんの呼吸」というのはその究極にあるのだろう。 一方で、対象の限定が取り除かれたとしたら、そこで使われる 言葉には究極の「客観性」が要求され、もはや、「情」に訴え た伝達は不可能になってしまうのである。
私の、学生時代の指導教授は、スポーツに関して、「アート」 と「サイエンス」の二つの側面を強調していた。おそらく、 「サイエンス」はスポーツの基本的な枠組みについての理屈を 提供し、理解の助けとなるけれども、それだけではスポーツを 語り尽くすことはできない。一つの文化としてのスポーツを伝 播し成育させるためには、「アート」が必要なのだ。というこ とだろう。確かに、オリンピックのような一流の演技を見てい ると、「スポーツは芸術だなあ」と、感じてしまう。こういう 演技には、「眼で見て、耳で聞いて、肌で感じて…」というよ うに、五感をとぎすませた並列処理が重要になる。そこでは、 スポーツとは「アート」なのだろう。すなわち、スポーツの持 つ芸術性を支えているのは、その情報伝達の並列性であるとい うことだ。
ここでも、やっぱり「理屈」は不利なのである。考えれば考 えるほど、また、理屈をつければつけるほど、私の中の「芸術 を理解する心」が失われていくような気がする。それでも私は、 考えることでしか自分を主張することができないものだから、 ますます、「科学」の呪縛から抜けられなくなってしまうので ある。このような科学者はけっこう多いのではないだろうか。 もちろん、「人為」という意味では「科学」も「アート」の中 に含まれるのかもしれない。でも、こんな言葉遊びもやっぱり 理屈に違いあるまい。
おそらく、「科学的」であることと「芸術的」であることは 二者択一のようなもので、その両者を窮めるのがとても難しい ということなのだろう。だとすれば、「科学的スポーツ」と 「芸術的スポーツ」もまた二者択一ということになる。両者の 融合した姿が私の頭の中に思い浮かばない原因は、そこにある のかもしれない。