偶然と必然

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 12月号)


 高校時代の私は、数学が得意だった。もちろん、教科書の問 題を解くのも好きだったけれど、「数のふしぎ」なんていう本 を読むと、面白くってわくわくしたものだった。そんなもんだ から、最初の内は、大学では数学科に行こうと決めていた。

 ところが、高校2年になると、物理に興味を持ちだした。とっ かかりは違和感があったのだが、解き方がわかるとあとは数学 とおんなじで、定式に従って数式を変形していけば良いという ところが私に向いていた。とにかく問題を解いてやり方を習得 しさえすれば、ほとんどの問題は解くことができたから、たち まちの内に物理が得意科目になり、物理が大好きになってしまっ た。当然のことながら、卒業する頃には、物理学科に行きたい と思うようになっていた。

 私が入った大学では、入学時には専攻を決めなかったのだが、 志望調査では、理学部物理学科と書いた記憶がある。ところが、 大学に入ってからは、数学も物理も化学もてんでわからない。 授業にも出ないし勉強もしないのだから当り前だが、1年の前 記試験でのきなみ「不可」を頂いたこともあって、私には理学 部は向かないのだと思った。

 専攻の学科が決まるのは2年度の秋で、各自の希望が定員を 上回った学科では、それまでの定期試験の成績順に進学者を決 定するというのが、「進学振り分け」のルールだった。当時の 私の第一希望は、機械工学科であった。これも、一つ上の先輩 から勧められて、簡単そうだったからというのが選択の理由で ある。私の成績からいってちょうどお手ごろの学科だったとい うのも、動機の一つであったろう。

 ところが、である。なんと進学内定者の発表を見に行って驚 いた。私の覧には、「タイイク」というカタカナの4文字…。 その後一ヶ月、出会う友達みんなから、「どうしたの?第一希 望で出したの?」という言葉を受けたほどだった。これは何か の間違いだと思いつつ成績表を受取にいったら、私の平均点は 機械工学科の最低点よりも高い!?やっぱり間違いだったと勇 んで事務所へいった。そこでも驚かれて、どうしたことかと調 べてくれたのだが、結果は単純だった。

 工学部へ進学するためには、「生物学」を履修していなけれ ばならないのだが、その最後の試験成績が悪く(おそらく0点 だった)、それを加算すると若干下回るということだ。教育学 部(体育)の場合は、生物学の履修が義務づけられてていない ため、不可の科目を平均点に加算しなかったのだった。

 「なんてこった…!!!」

私は、呆然とした。

 確かに、私の志望調査票には、「体育」と書いてあった。そ れも、第三志望で…。工学部に志望するときには第二志望まで しか書いてはいけないことになっていたので、余っている覧を 埋めるためになんとなく書いてしまったのだった。もちろん、 当然のことながら「機械」に行けるものだと思っていたから、 深くは考えなかったのだ。

 「なんたる偶然……。」

 この話をすると、たいていの人は笑いだす。私も、笑わせよ うとして言うのであるから、笑ってもらって自分でもうれしく なる。でもこうして、「スポーツの云々」というような記事を 書いていると、偶然とは恐ろしいものだとしみじみと感じる。 まあ、人生のレールなんてこんなものだろう。

 私の場合、2年の秋までは、機械工学科に行くのが心に描か れたレールだった。ところが、突然「タイイク」というどんで んがえし。これは、偶然のできごとだった。でも、よく考えて みれば、試験場で初めて先生の顔をみたという生物学の試験で は、0点をとるのが当り前。そしたら、平均点が下がって「機 械」に行けなくなってしまうのもしかたがないのである。「体 育」と書いたのも、理学部への進学を諦めて新めてガイダンス ブックをすみからすみまで読んだとき、「こんな学科もあるの か」とあるのかと驚いた印象が強かったのだろう。だとしたら、 これは、私の気付かないところで進んでいた必然のできごとだっ たともいえる。

 まあ、偶然か必然かなんてことは、裏表の関係にあるような ものだ。だいたい、「物理」を諦めたことだって、授業につい て行けない当然の結果なのであるが、授業に出れなくなるよう なクラブ(馬術部というおぞましいもの)に入ったのも、言っ てみれば偶然のことなのだ(事実、私は新入生歓迎コンパなど というクラブ紹介を模した催しで、晩飯代をうかせようとした ばっかりに、その後の4年間を過ごす羽目になってしまったと もいえるのだ…)。

 でも、だいたい、「物理」に行きたいと思ったのも、高校の 授業でそれがあったからで、「機械工学」なる代物が高校の科 目にあったら、とりこになっていたかも知れないのだ(でも、 そういえば、体育という科目もあったな!?)。数学だって、こ どもの頃から、問題を解けることをほめられていれば、好きに なるのも当り前だ。この場合、数学を好きになって、将来そう いう勉強をしてみたいと思うのが必然かも知れないが、私がた またまそういう(数学ができるとほめられるような)世の中に 生まれたせいかもしれない。そうだとすると、これは、偶然の 産物といううがった見方もできるだろう。

 こういうことは、いくらでもある。例えば、あなたが竹薮で 一億円を拾ったとしよう。あなたにとって、それは偶然のぎょ うこうであろう。でも、そこへ落とした(置いたというのが正 しいのか?)人がいなければ拾うことはできないし、そこへ行 く理由がなければ見つけることはできない。もしかして、その ニュースを聞いてあとから探索した人がもう一つを見つけたと したら、単なる偶然とは言えないだろう。つまり、私が「体育」 へ決まったのと同じように、あなたの気付かないところで進ん でいった必然的なできごとかも知れないのである。

 偶然か必然かということは、確率の問題としてもとらえるこ とができるだろう。竹薮にいって一億円を見つけるという確率 はとても低い。また、誰かが見つけたにしても、それが私であ るのかあなたであるのか、あるいは別の誰かであるのかという ことは全く関係ないのであるから、そのなかで「あなた」が見 つけるという確率は、さらに低くなる。でも、もしその後で落 し主が現われて、じつはあそこにもう一袋捨てた、といえば、 次に探したときに見つかる確率は高くなるから、それはもう偶 然とはいえないということである。でも、最初の発見者と次の 発見者との違いは、そこに落ちているという情報を得ていたか どうかという違いであって、「知らない」ということを偶然の 要素の中に含めてしまうのであれば、私の進学先が「体育」で あったことも、全くの偶然以外の何物でもない。そこでは、 「知らないところで進んでいた必然の事態」というものが全く 評価されていないのである。じつは、「確率」という概念自体 が、「偶然」を前提としているのであるからやむを得ない。

 昨日、突然雨が降ってきたとき、たまたま私は傘を持ってい て助かった。でも、他の人たちはみんな天気予報の降水確率が 100%ということを聞いているから、当然のことながら傘を持っ ている。この場合、私は、「偶然」に助かったのであろうか……。

 私には、ゴルフに凝っている友人がいる。先日、私の家を訪 れた折、「こどもにゴルフをやらせて、うまくさせるんだ」と いっていた。同席した別の友人が、「やらせるといっても、本 人が楽しく思うのでなければだめだよ」という。「だから、面 白く思うように仕向けるんだよ」とは彼の弁。「まさに、教育 だね」というのが私の感想。

 ゴルフにしろスケートにしろ体操にしろ、こどもの時からや り続けて一流の選手になっている人たちはたくさんいる。もち ろん、スポーツだけに限らない。ピアノ、将棋、そろばんなど など…、もちろん勉強だってそうかもしれない。この人たちが 一流になったのは、偶然だろうか、必然だろうか。

 オリンピック選手を両親に持ち、物心ついたころから水泳に 励んでいれば、泳ぎがうまくはなるだろう。そして、温かい家 庭環境の下で[う・ま・く・]育てられれば、心底楽しく感じ ながら、一流選手への道を進んでいくことだろう。もちろん、 時には練習がいやになったりすることがあるかもしれない。で も、そんなささいなことは関係ない。ちょっとぐらいの心の迷 いも吸収されるような練習環境が、整えられていたからだ。同 じ悩みを持った水泳仲間もいた。精神的にも経済的にも恵まれ た家庭環境は、常に自分を省みることを自由にさせたし、自我 の育成も妨げられることはなかった。

 いろいろな条件をすべてあげれば、「この親にしてこの子あ り」、ということになるかも知れないが、それは家庭環境、練 習環境や経済条件といった全ての要因を目の当たりにして、そ の選手が成功していることを知っている現段階での評価であっ て、オリンピック選手の両親から生まれた赤ん坊が一流の選手 になることは、決して必然的なことではないのである。まして や、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、そこにいた両親が元 オリンピック選手だということは、全くの偶然のできごとなの である。

 振り返れば、必然のできごとであっても、未来を予測できな い時には必然とはいえないのは、天気予報と雨傘の例からもお わかり頂けることと思う。もうすこし、続けると、竹薮の中に もう一つ落としたという情報を得て探し出した人は、「確かに そこにあるはずだ」と信じているからこそ、見つかるまで探し たのだろう(これは単なる架空の話であるので、事実と混同し ないように…)。それに比べて、最初に見つけた人は、たまた まそれに出会っただけなのである。ここで重要なのは、最初の 人が見つけた頃、その付近にいた人にはみんなチャンスがあっ たということである。誰でも同じだけチャンスがあったにもか かわらず、「そこにある」ということを知らないために、「見 つける」ことが偶然になる。でも、もしそこにあるということ を知っていれば、探し方も念が入ったものになるであろうし、 「見つける」ことも必然に近くなるのである。

 元オリンピック選手である両親は、自分たちのこどもが一流 の選手になるはずだということを知っているために、そこから 育てられたこどもが一流選手になることがあたかも必然的な結 果のように思えてくるののかもしれない。それは、竹薮の一億 円の場合と似ている。もしかしたら、誰のこどもであっても、 一流選手になるチャンスは同じかも知れないのに、ただそれを 「知らない」という理由で、そのチャンスを逃している場合だっ て多いかも知れないのだ。

 考えてみれば、未熟なこどもを自分の思うように(理想どう りに)育てたいというのは、だれしもが思うことだろう。親た ちは、「人は一人では生きていけないのだから、社会の中で協 力しあっていかなければならない」ということを教えるかも知 れない。でも、その社会は、自分たちが[た・ま・た・ま・] 生きてきた社会なのである。日本と中国とでは社会の仕組みが 根底から異なっているし、同じヨーロッパでも現代のそれと中 世のそれとは、価値観が大きく違うことだろう。これらは、ど ちらが良くてどちらが悪いというものではあるまい。ただいえ ることは、「その社会で満足している親たちは、自分のこども にもその社会に適応してほしいと望んでいる」ということでは あるまいか。それが、国家の単位で行なわれているのが学校教 育である。また、スポーツとか音楽などは、民族あるいは国家 社会とは違う、もっと小さな社会なのであるが、その社会で成 功した親あるいはこどもには成功してほしいと思う親は、こど もの成功を期待して家庭教育に励むのである。

 これを「教育」といえば聞こえは良いかも知れないが、「洗 脳」と紙一重といっても過言ではない。いやむしろ、これは同 一の事象の裏表の表現であるともいえるだろう。その社会の中 で安住していて、価値観に疑念を抱かない人たちにとっては、 その価値観の伝達は「教育」以外の何物でもない。しかし、そ の社会の外部にいて、その中で行なわれている価値観の伝達を 好ましく思わないような人たちにとっては、「洗脳」と映るの だろう。天安門事件以降、中国では、地域・職場での共産主義 に関する「学習会」が盛んに行なわれるようになったという。 これは、ある意味では政治的な色合いの強いものであるが、そ れを「洗脳」だと感じる人は、おそらく中国の共産主義に対し て好意を抱いていない人だろう。

 私にとって、数学はたいへん好ましい科目だった。常々、数 学の成績は良かったし、難しい問題を解けることは誇らしくも あった。しかも、周りの人たちから褒められることはあっても、 貶されることは皆無だった。物理にしてもそうである。もうそ の年になって、周りに褒めてくれる人はいなかったが、成績が 良いことを批判する人はいなかったのである。だから、数学や 物理が好きになるのも当り前だ。でもそれは、この社会が、数 学や物理をできる人を好ましいと思っているからだけなのであ る。社会の意志がそのようなものであるからこそ、学校教育と いう形で数学を「洗脳」するのだし、成績のよい人は大学に入 れてあげますよというような餌を与えているのである。

 私は、恥ずかしながら、数学や物理が全てではないことを、 大学に入って初めて知った。これは惨めな経験ではあったけれ ども、勉強としてのそれと学問としてのそれの違いを感じたと でも言っておこう。私はこの社会から逸脱するつもりはないけ れども、これらの学科が必修科目として高校までで教えられる のは、今では、「洗脳」以外の何物でもないと思っている。で も、一人立ちできず、いずれにしてもどこかの社会に所属せざ るを得ない未熟なこどもが、生きていくためには、いずれにし てもこのような洗脳が必要なのである。

 たとえば、小さいこどもをスポーツ教室に通わせる親たちに 対して、「こどもの気持ちを尊重すべきだ」とか、「偏った運 動は心を歪ませる」などというのはたやすい。しかし、そのよ うに言ってしまったのでは、すべては「教育」であり「洗脳」 なのだという、ことの本質を見失う可能性がある。問題は、 「洗脳」を「教育」に、「強制」を「自主性」に変換するよう な心の持ち方なのではないかと、私には思える。

 私が体育学科に進んだのだって、成績が悪かったからしょう がないなどと考えたら暗くなる。第三志望にたまたま書いたら、 決ってしまったといえば笑い話になるというものだ。突然の雨 に降られたときに、何で天気予報を聞かなかったのだと責めら れると悲しくなるけれども、偶然当たってしまったと思えば、 諦めもつくというものだ。竹薮の一億円だって、宝さがしのよ うにみんなで競って見つけようとすれば、見つけられた人を恨 めしく思うかも知れない。悪い状況に出会ったときは、偶然の 産物だと思えばよろしい。

 でも、うまくいったときは、努力の甲斐があって報われたの だと、必然的な側面に眼を向けて自身を持つのも結構だ。なぜ ならば、終わった後には、全てが必然になってしまうからだ。 オリンピック選手の両親に育てられた二代目もしかり。でも、 最初からそれを必然だと思ってしまうと、成功しなかったとき に立ち直れないというわけだ。

 スポーツには、偶然の要素が多くある。やる前から結果がわ かってしまっていれば、見ているものにもやっているものにも、 面白いことは一つもない。だから、いくら金メダルが期待され たとして、それを必然のことだと思う必要は全くない。これは、 どんなレベルの勝敗についても同様である。たとえ、テニスの サービスをミスしたとしても、「世の中そういうものなのだ」 と思えば、なんだか明るくなったりはしないだろうか。そうい う考え方が、私は好きなのである。


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