人間改造のためのスポーツ科学

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年2月号)


 本物の批評を見つけた。「体育・スポーツ評論3号、特集: オリンピック・国体・ニッポン、国民スポーツ研究所・不昧堂 出版」というのがそれである。このコーナーは、Critical Essayというタイトルがついており、もちろん、スポーツや科 学にまつわるいろいろなできごとを批判的に考えてみたいなと いう、単なるたわごとなのであるが、こっちは本物の評論なの である。まずは、敬意を表して最敬礼。

 ところで、私の専門はスポーツ科学ということになっている。 といっても、スポーツ科学というものが何をするものなのかい ま一つ理解していないのではあるが、とりあえずここではそう いうことにしておこう。スポーツ科学が専門という以上、スポー ツについて科学的に探求すするというのが私の仕事の一つなの である。そのため、常々、「スポーツとは何か」とか「科学的 とはどういうことか」なんてことを考えるわけである。こうい う考えはだいたい哲学的になっていってしまうのだが、残念な がら私には哲学的な素養がないものだから、こんな形でしか感 想を述べることができないのであった。そんなところに、この 本が舞い込んで来た(といっても突然送られて来たわけではな く、生協で購入した)というわけなのである。

 面白かった。…。「スポーツと政治」「日の丸をつけた朝鮮 選手たち」「体育学の課題−初学者の疑問として」「日本ファ シズム下の体育・スポーツ政策・補論」は、戦前の軍政の中で の体育・スポーツおよび体育学の役割について述べられている もので、時の政治とは切り放しては考えられないスポーツの姿 を浮き彫りにしていた。ソウルでの聖火ランナーとして、ベル リンオリンピックマラソンの金メダリストであった孫基禎選手 の名前は記憶に新しい。その孫選手が選ばれた代表選考会では、 日本陸連は朝鮮選手に対して差別策を打ち出し、当時実力ナン バーワンと公認されていた孫選手以外の朝鮮選手は優勝しなけ れば代表にしないと決めていたのだそうだ。これに反発して、 当日は孫選手が日本選手のペースを撹乱して自らは二位となり、 南選手を優勝させたという。結果的には、オリンピックでの金・ 銅メダルという快挙になったわけであるが、その結果は、朝鮮 人抑圧という当時の政策の中では必ずしも好ましいものではな かったようである。日本の歴史の中では、軍政の歪が過少に記 述される傾向にあるようだが、体育学の世界でも、政治との関 わりについてはきれいごとで済ませようとする傾向があるよう に思えてならない。この書では、そのような風潮に対する批判 が堂々と記述されており、読みごたえがあったというわけだ。 私にはそんな立派な論文はとても書けないので、このようなコー ナーで、お茶を濁すくらいしかできのが恥ずかしい。

 ところで、この本の中で、奈良女子大学の山本徳郎氏が、 「体育学が今日行っているいわゆる科学的研究は、多かれ少な かれ人間を改造するメカニズムに理論を提供する可能性を秘め ている」と、述べている。最後だけを引用してしまっては本当 の意味は伝わらないかもしれないが、これは至言である。返す 言葉がない。感想をつけ加えさせて頂くと、現在のところこの ような「人間改造」が問題にならないのは、スポーツ科学の成 果が役に立っていないからなのだと思う。もし、科学的(再現 性のあるという意)な手法で選手の能力(競技成績)を向上す ることができれば、それは科学による選手の改造ということに なる。実はこの問題は薬物ドーピングという形で具現されてい る。成績向上のための薬物処方は紛れもなく科学の成果であり、 このような成果は、スポーツの世界では否定されている。同様 に、空気抵抗を減ずるための装置や衣服も科学の成果であるが、 スピードが出すぎて危険であるという理由で禁止されるし、ゴ ルフボールはルールの限界まで達してしまっている。私は、コ ンピュータシミュレーションによって新しい体操の大技を創造 することができないかなどと考えているのだが、もし、できた としても、本当の意味でスポーツの世界に貢献するかどうかは 疑問である。危険だという理由で拒否されるかも知れないし、 面白味がなくなると言われるかも知れない。じゃあ、スポーツ 科学っていうのはいったい何のための学問なのだろうか。

 研究者たるものは、どんどんと学術誌に論文を書かなけ ればいけないといわれる。こんなところでのんきなことを書いてい たら、失業してしまうのである。逆に、もし、完璧な競技力向 上の手段を発見できてその論文を発表したら、私は一気に有名 になってしまう。どうせやるなら、世の中にアピールするよう な仕事がしたいというのは、純粋な若者の夢なのだ。

 こうして私は、「人間改造」の手助けをする「スポーツ科学」 に専心することになるわけである。


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