Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 4月号)
1月24日、朝日新聞スポーツ欄を見ていた私の目に飛び込ん できた見出しがこれだった。ソウル五輪不振の反省から選手強 化事業などの増額がほぼ要求通りに認められ、日本体育協会に 対する来年度の国庫補助金が今年度比33.2%増の17億3300万円 と決まったという内容の記事であった。この中には、スポーツ 医科学センターの基本設計に充てる7700万円も含まれるが、目 玉となるのは、これまで約9億円だった選手強化事業費を一挙 に50%近く増やして13億円弱にまでするということだった。こ の増分は、海外からの優秀なコーチを長期にわたって招く計画 や各競技の専任コーチ制度を充実させるほか、国内、国外での 選手強化合宿にも使われるということである。
確かに、ソウル五輪での日本選手の金メダルは4個であり、 成績の不振は否めない。選手強化へ向けて尽力くださっている 体協あるいは各競技団体の方々の苦労を思うと、「もっとお金 があれば…」という気持ちもよく理解できるし、「このままで は、日本のスポーツ界はますます低落してしまう。強化費を充 実して衰退傾向に歯止めをかけなければ…」という意見があが るのももっともだ。そのように思う人がたくさんいたからこそ、 このような予算が充てられたのだと思う。でも、本当にお金が あれば良いのだろうか。そして、本当に選手強化にはお金が必 要なのだろうか。
最近、こんな話を聞いた。現在のボート競技に使われる艇は、 オールの軸が固定されていて、一漕ぎ毎にシートが移動するよ うになっている。したがって、漕者はオールで水をかくことの 他に自分の身体を移動させるためにもエネルギーを使わなけれ ばならない。そこで、オールの軸の方を移動させて身体を動か さないようにしたところ、艇のスピードが格段にアップして、 普通の艇では勝負にならなくなってしまった。ただし、その艇 の建造には、従来のものの10倍近くの費用がかかるため、選手 に経済的な負担がかかるという理由で、そのような艇の使用が 禁止されたのだという。この話については、直接資料に当たっ て確かめたわけではないので、誤っている点があるかも知れな いが、同じような事例を思い浮かべることのできる人も多いは ずである。艇の外面に貼るフィルムが禁止されたのも同様の理 由によるものであろう。かつて、オリンピックの種目から馬術 とヨットを除くべきだと主張したIOC関係者がいたが、本質 的に多額のお金を必要とするスポーツであり、経済的な理由で 参加できない人を排除することになるからというのがその理由 であった。すなわち、スポーツで成績をあげるためにはお金が 必要だといっても、かかりすぎるのは好ましくないということ になる。
まあ、選手の強化費が50%増えたといってもたかが4億円程度 であり、GNP1%云々という防衛予算のさらに1%以下の規模の 予算なのであるから、増やすのがけしからんなどというつもり は毛頭ない。むしろ、これまでが少なすぎたのだというのが正 しい見方といえるだろう。でも、4億円を「たかが…」といえ ないような国だってたくさんあるのだ。スポーツを人間の文化・ 芸術の一つとしてとらえ、「裕福な国がそれを推進するような 施策をとるのは当然」というのならば、たいへん理解しやすい。 しかし、「オリンピックで金メダルをとるために」という動機 で国家予算を使うことは、大国によるメダルの独占という現状 に拍車をかけることにつながるのではあるまいか。金メダルの 数が経済力の指標であると考えるとしたら、それは、「シート の移動しない艇で勝つ」ことを是とする概念と同等だろう。な ぜなら、経済力にものをいわせた選手強化事業によって、大国 によるメダル狩りがこのまま進行すれば、経済力の小さな国が 実質的に排除されるという結果になりかねないからだ。
選挙だって金がかかりすぎるのは良くないのである。政治家 の金銭感覚が批判の対象となるのと同様、スポーツに対する日 本人の金銭感覚も、そのうち諸外国からの批判の対象となるか も知れない。金メダル数が日本よりも少ない国はたくさんある。 メダル1個の価値がとても大きい国もあるだろう。日本の中で の1個の金メダルよりも大きな影響を持つ銅メダルだってある かもしれない。そのような国に対して日本の優秀なコーチを派 遣するようなことにお金を使ったほうが良いのではないかと私 は思う。そういうスポーツ援助を国家的な規模でどんどん推進 してほしいと思うのである。きれいごとではあるが、小さく弱 きものへの思いやり予算というのが私は好きだ。世界の人々の 中で日本人はとても裕福な部類に入っているのだから、スポー ツぐらい自分のお金でやってもいいんじゃないかななんて思っ ている1月24日の朝なのである。