経験や勘は科学ではないのだろうか

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 5月号)


 日本バイオメカニクス学会が編集・刊行している、Japneses Journal of Sports Sciencesの1月号に、「スポーツのハイテ クノロジー」というタイトルの特集が組まれた。その巻頭言の 中に、面白い記述があったので、少し引用させて頂くことにす る。

「スポーツ界においてはオリンピックが行われると、急にメダ ル数やスポーツの科学化や科学的なトレーニング、科学的な練 習法などが唱えられてくる。しかし、オリンピックが終わり、 惨敗するとこうした科学やハイテクの話は終わってしまい、旧 態依然とした体験主義や経験主義が頭を持ち上げてくる。」
 私はこの文章を読んで、「体験や経験は科学ではないのだろ うか」という疑問を抱いた。そこで、いくつかの本などの中か ら、スポーツや科学に関わってきた人々の発言を拾ってみた。

 全ての見解を十分にカバーしきれたとは言えないが、ちょっ と見ただけでも、様々な人がいろいろな意見を持っていること がわかる。この中で、「コーチの経験を後押しするのがスポー ツ科学である」という見方は、「経験や勘」に意義を認めた発 言であるといえるが、それでも、「コーチの経験」と「科学」 とが別のものだという認識は、共通のもののようだ。

 ところで、科学的方法の中には、実験的なアプローチがある。 この「実験」を英語でいうと「experiment」となるが、「経験 (experience)」と類似していることがわかる。実は、どちら も「試しにやってみる」という意味のラテン語に由来する言葉 なのである。英語の語源が同じだからどうということではない が、「実験的手法」が科学の中に持ち込まれた「経験主義」で あることは確かである。そうであるならば、どうして、実験的 に得られた研究者の経験が科学と呼ばれて、実践的に得られた コーチの経験が科学と呼ばれないのであろうか。冒頭にあげた 私の疑問は、こういうことに根ざすものなのである。

 話は変わるが、仙台市の地下鉄では自動運転システムを採用 している。自動運転というからには、人間が運転操作をしなく てもちゃんと動き始めて、次の駅に近づくと正しく止まるとい うものなのである。これは、一見簡単なことのように思える。 もちろん、操作の対象となるのは機械であるから、単に出発と 停止を繰り返すだけなら、それほど難しいことではない。しか し、そこに「乗り心地を損なわない」という条件を付け加えよ うとすると、その制御は大変難しいものとなる。実際に運転士 が操作する場合にしても、心地よく停止してくれる場合もあれ ば、立っている乗客が押し倒されそうになる場合もある。電車 の混み具合いによっても停止の仕方を加減しなければならない ような微妙な操作を、機械はどうやって自動的に行うことがで きるのだろうか。

 仙台市の地下鉄では、ファジィ制御という制御手法を用いて いる。ファジィ(Fazzy)というのは、「曖昧な」という意味 の英語であるが、これは、人間の言葉が持っている漠然とした 概念を定量化するための方法だと思って頂ければよい。人間が 抱いている主観を数値として定量化することができれば、それ をコンピュータによって取り扱うことができる。例えば、熟練 運転士が、「このままでうまく止まれそうだ」「少しブレーキ を強くしたら、正確に止まれるし乗り心地も悪くない」といっ たことを考えながらブレーキを操作しているとする。ここでの、 「うまく止まれる」とか「少し強く」、「悪くない」というの はあくまでも主観的判断であって、そのイメージは人によって も違ったものになるだろう。その中の、熟練者のイメージだけ を寄り合わせて、経験則として言葉で記述し、ファジィ理論を 用いてコンピュータが理解できるように定量化するのである。

 人の叡智あるいは高度な学習は、日常の言語によって行われ る。この言語には漠然とした部分が多く、量や程度を表す言葉 にしても、「定量的」というよりは「定性的」という方が適当 である。すなわち、人の高度な学習は、定性的な言語表現で行 われているといえる。ところが、定性的指令だけでは人間は動 くけれども機械は動かない。その橋渡しをするのがファジィ理 論なのである。

 スポーツの経験的な指導は、コーチから選手へと伝えられる ものであるから、「定性」から「定性」への指令であるといえ る。一方、競技の記録は定量的なものであるから、競技会その ものは、選手の持つ「定性的」な能力から「定量的」な記録あ るいは成績への変換だとみなすことができる。コーチの指導も 最終的には競技成績への「定量化」が目的であるから、「定性 (コーチ)」→「定性(選手)」→「定量(競技)」という流 れとしてとらえることができるだろう。

 一方、実験的な科学が目指すものは現象の定量化であるから、 コーチの指導を科学的に捉えようとする場合には、「定性(指 導法)」→「定量(科学者→選手)」→「定量(競技)」とい う流れになりやすい。すなわち、選手に与える情報を定量的な ものにしようとしているのが、実験的なスポーツ科学であると いえる。ところが、定量的な指令だけでは機械は動いても人間 は動きにくい。そこで、選手に指令する段になって、定性的な 記述に変換しようとする。その役割を担っているのが、科学者 であり科学的な指導者だといえる。すなわち、「定性(指導法)」 →「定量(科学者)」→「定性(選手)」→「定量(競技)」 という図式になる。これを最初の図式と比べると、コーチと選 手の定性的な(言葉による)指導の間に科学者が割り込んだ形 になっていることがわかるだろう。

 定量化しなければ科学的な検討ができないというのであれば、 これもやむを得ない。しかし、仙台市の地下鉄にみられるファ ジィ制御は、人間の定性的な感覚あるいは営みをそっくりその まま残したまま、機械に理解させる段になって初めて定量化し ようという試みであり、「定性」から「定性」への科学的な記 述も可能なのである。コーチが理解させようとしている対象は 機械ではなく人間なのだから、人と人とを結びつける定性的な 言語表現を機械の言葉で置き換える必要はなかろう。むしろ、 熟練したコーチの持っている定性的な情報をそのまま選手に伝 えることを可能にするような科学的アプローチを探る方が人間 味があるのではないかと思えてくる。

 そのように考えると、経験や勘に頼るコーチングは、現在の スポーツ科学が未だ取り入れていない科学的アプローチの実践 なのではないかと思えてくる。ある優秀なコーチが教えた選手 は必ず上達するというような再現性があるのならば、それも確 かに科学であろう。現在のスポーツ科学者がそのような高度な 科学を理解できないとしたら、それは私が高度な数学を理解で きないことと同じようなことなのではないだろうか。少なくと も、「コーチの勘や経験を非科学的だと排斥するのは、科学者 の取るべき態度ではない」と、私は思うのである。


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