Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 7月号)
ところで、最近JAMA日本語版(アメリカ医学会雑誌の翻 訳記事を中心とした雑誌、毎日新聞社刊)の中に面白いエッセ イを見つけた。「思考のかて」と題する小品である(89年2月 号)。著者は74歳の医師。ある製薬会社後援のディナーつき講 演会に向かう車の中で、80歳代半ばの同僚2人の会話を聞くと ころから話が始まる。
2人の先輩はともに健康で、特別の薬や治療を必要とせず、 50年間以上診療活動を続けてこられたことに満足しているのだ が、一つだけ悩んでいることがある。それは、「死に方」だっ た。一人は、「重い冠動脈疾患で短時間に死ぬこと」を望み、 もう一人は、「ベッドに入ったまま目覚めない」という死に方 を望む。どちらも、速く安楽に死にたいと願っており、苦しみ ながら生き続けるという事態を恐れているのであった。「重い 脳卒中、脳出血は痛みがなく、望みどうりだけれど、重くなけ れば困る。ナーシングホームには行きたくないからな。それよ りは死んだ方がましだ」という記述が印象深く、思わずアンダー ラインを引いてしまった。
「年齢の割に健康過ぎることは必ずしも幸せなことではない」 というのが、このエッセイのテーゼであろう。著者は、アテロー ム硬化性血管病、特に冠動脈疾患については全く心配がないと いう。家族は長寿、健康状態は良好、検診結果も正常という良 い要素は、冠疾患の危険を全く感じさせない。とすると、人生 のゴールラインまでずっと笑っていられるはずだが、そうでは ないという。なぜなら、心疾患で死なないということは、他の もっと苦しい死に方をするということを意味しているからであ る。「もし私が突然の心筋梗塞や脳梗塞で死ねないとしたら、 私の存在を終わらせるものは何か。癌?なんと恐ろしいことか。 そんなことがあってたまるか」と、つぶやく。どんな医学文献 を見ても、コレステロールその他の冠動脈疾患危険因子につい ての記事は、危険因子が全くないことが悪いニュースであるこ とを暗示していないが、本当は悪いニュースなのだという。
講演では、スポンサーの製薬会社のつくったコレステロール を減らす薬についての話を聞いたが、著者は既に、高コレステ ロール血症が良いことであると思っており、ディナーでは、最 も厚いなま焼けのローストビーフを注文し、それまでブラック で飲んでいたコーヒーにも、砂糖とミルクをたっぷり入れたと いう。さらに、「もし、脂肪の多い高コレステロールの食事が 癌で死ぬことを防ぐのなら、それは価値がある」と、断言して いるのである。
もちろん、健康は、何にも代えがたい大切なものである。そ して、運動に関わる研究に従事している私にとっては、単に自 分の身体のことだけにとどまらない魅力を持った言葉である。 運動と健康、あるいは、スポーツと健康という結びつきは、自 分の専門分野の意義を認めさせる上で、大きな影響力を持って いるからである。でも、それは正しいやり方なのだろうか。時 として私は、「肥満の解消のためには運動が一番」とか、「適 度な運動は、心疾患の危険因子を減らす」などと言っている。 しかしながら、その時、心疾患の危険因子を消滅させた後のこ とまでは考えてはいない。疾患の危険因子がないことは、必ず しも健康であることを意味するものではなかろう。それなのに、 私の言葉は、あたかも運動が健康をもたらすかのような響きを 持っている。科学的に証明されたことは、例えば、運動と心疾 患との関連であって、健康との関連ではなかったはずなのであ る。「健康」とは、科学で語れるほど単純な言葉ではないとい うことなのであろう。先のエッセイのテーゼも、そんなところ に由来するもののように思われる。
「一刀両断」に解決できない問題だとしたら、少なくとも 「両論併記」という形で先に進みたい。すなわち、「疾病を予 防する」という見方と、「他に死因を求める」という見方とは、 「健康」という同じ事象の表裏の関係にあるということを了解 した上で、事を進めようと思うのである。「心疾患を予防する」 と言う代わりに「癌で死なせる」などと言うわけにはいかない が、少なくとも、「運動をすると健康になる」というような直 截な表現は、これからは使わないようにしようと考えている。