男社会のスポーツルール

Training Journal:クリティカルエッセイ'89「科学とスポーツ」を再掲 (89年 9月号)


 話は横道にそれるが、今日は7月8日である。東京都議選で の社会党の圧勝の後をうけ、参議院選の真っ最中なのである。 もちろん、選挙の話はTJ誌とは全く関係がない。私がここで 述べようと思っているのは、スポーツにおける男と女の問題で ある。

 朝日新聞の金曜日の朝刊に、天野祐吉氏のコラムが連載され ている。「私のCMウオッチング」というタイトルで、私が最 も楽しみにしている記事なのだ。そして、昨日のタイトルが 「男と女の大戦争」だった。

 この記事の枕に取り上げられたのが東京都議選。その結果を 見ていると、「世の中少しは変わってきたんじゃないか」とい う気がしてきたらしい。といっても、こんどの選挙の結果を、 自民が負け社会が勝ったというふうに見るのではなく、「男が 負け女が勝った」と見ているらしい。

 ただし、ここでいう男と女というのは、生物としての区分で はなく、モノの考え方、感じ方としての男と女なのである。 「こんどの選挙では人々の中にある女の部分が、もう男のやり 方ではニッチもサッチもいかないと判断したのだろう」という。 そして、そういう時代を広告するタレントとしてすごい働きを したのが、「宇野さんとのおつきあいをバラした中西ミツ子さ ん」である。とくに、テレビの中で『泣かされたぶん、お返し したい』としゃべったときの大迫力の映像は、男のルールをぶ ちこわす女のロンリのすざまじさを、もののみごとに広告して いたというのである。もちろん、彼女が男女間のルールに違反 したという見方もあるけれども、じつはそれは「よくいえば紳 士協定、あけすけに言えば男社会のナレ合いルール」なのだと いう。私は、この最後のいいまわしが特に気に入った。

どう考えても、この世の中は男を中心としてルールが定めら れてきた社会なのである。その中で、女が生きていこうとする とき、男のルールに従ってその中で自分の立場を高めていくと いう穏健なやり方もあるかも知れないが、男のルールなんてまっ ぴらゴメンという急進派がいてもちっともおかしくない。問題 なのは、ヒトの中には男と女が半分ずついるのに、世の中のルー ルには男を主体とするものがあまりにも多いということなので ある。

 一ヶ月ほど前、レンタルビデオで「遠い夜明け」という映画 を見た。南アのアパルトヘイトに関する映画であるが、その中 で、「白人社会のルールを前提として差別をなくしていくので はなく、黒人の文化を基盤にした独自の社会をつくらなければ いけない」ということを訴えていた部分があった。白人のつくっ た科学を学ばせるための奨学金やメイドとしての身分の保証は、 黒人問題を解決するためには全く役に立たないどころかむしろ 障害となるということである。

 「白人のつくった科学」というのに違和感を感じる方もいる かも知れないが、先月号でも触れたように、物理学にしろ医学 にしろ経済学にしろ、現在の科学のほとんどは西洋社会の価値 観に基づくものである。したがって、そのような科学を教える 大学への入学を援助したところで、それは西洋文化の押し付け にしかならないということである。

 ところで、男女雇用機会均等法が施行されてから丸三年が経 過した。当初は、「均等法亡国論」がささやかれるほどの波紋 を投げかけ、一方ではホネ抜きになったという批判を受けなが らも、徐々に浸透してその効果を現わし始めているようである。 もちろん、総合職・一般職という分類によって事実上の男女間 賃金格差を合法化しているという問題も指摘されているが、こ の背景には、伝統的な女性観や結婚観にとらわれている女性 (もちろん男性も)が多いということもあり、なかなか解決さ れそうにはない。

 ところで、鹿島敬氏(「男と女蝠盾樣絡学」、岩波新書) によると、「一般事務に従事している女性社員に求められる職 業人としての資質とは、明るさ、素直さ、まじめさなど」とい う意識が根強かったようである。「男性たちは雑用をにこやか にやっている女性社員を見ると、戦争のさなかに看護婦にでも 出会ったようなやすらぎを覚えるらしい」という意見もあると のことである。このような見方は極端ではあっても、それが社 会の中に広く蔓延していることは否定できないと思う。そして、 社員としての女性の役割として「ほほえみ」とか「お茶くみ」 を思い浮かべることこそが男の論理なのであり、極言すれば、 「メイド」という職への黒人の配置と共通するものだと言って も良いだろう。

 一般職・総合職という名称を使って女性的な仕事と男性的な 仕事を区分することは、男性的な女性(時としてきつい残業や 転勤を強いられる)と女性的な男性(一般職を希望する男性も いるらしい)を生み出すだけであり、男性的な総合職が優位に 立つという価値観には変わりがない。その意味では、均等法に 対応した総合職という制度も、やはり男社会の論理に基づく男 のためのルールだということになる。したがって、「転勤が多 いから結婚なんて無理かもしれないよ」という忠告とか、「女 であって女でない」という陰口を甘受する女性は、「オンナの ためのオンナの社会」を作り上げるための力にはなりにくいだ ろうと思われるのである。

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 さて、話はずいぶんとそれてしまったようだが、そろそろ本 題に入ることにしよう。

 ちょうど、「均等法」が施行された1986年の10月に、 J.J.Sports Sci.という雑誌で「女性の体力」という特集が組 まれた。スポーツへの女性の進出もめざましくなってきた折で もあり、時節をとらえた特集であった。

 この巻頭言の中に、面白い記述があった。現在の陸上競技の 世界記録の男女比をみると、走種目では90%、跳躍では85%程度 となっているが、文部省の体力・運動能力調査の記録でみると、 短距離走で80%、跳躍で70%しかなく、世界記録よりもその差が ずっと大きくなっているとのことである。もちろん、世界記録 が生物学的な極限の能力を現わしているとは必ずしも言えない が、女であるという社会的な事実が生活行動の差になって表れ、 それが体力にも反映しているのではないかと述べられている。 社会的な要因と生物学的な要因をきちんと把握して、男女差に ついての理解を深めようというのが発言の趣旨なのであるが、 私はここでちょっと変わった意見を述べてみたい。それは、体 力やスポーツの強弱を決めるルールが、男社会のものだという ことである。

 その特集の中の杉原隆氏の論文によると、心理学的にみた女 子スポーツ選手の人格的特徴は、ひとことで言って「男性的」 であるといえるらしい。そして、女性スポーツ選手がどの様な 性役割を期待しているかということを調査した結果、女性とし ての自分に対しては女性的な項目(例えば、かわいらしさ、優 雅さ、色気といったもの)を重視したのに対して、競技者とし ての自分に必要だと思う性役割としては男性的な項目(例えば、 冒険心、たくましさ、指導力など)を重要視し、女性的な項目 については逆に不必要と感じているということが確かめられた。 これは、女子スポーツ選手が、女性であることと競技者である ことの間で大きな葛藤を抱えていることを示している。

 スポーツへの女性の進出は、さも女性の解放の象徴のように も感じさせる。しかし、もともと、激しい身体活動と攻撃的な 競争を伴うスポーツは、社会的な性役割としては伝統的に男性 のものといった認識があったのである。したがって、スポーツ へ進出する女性には、男性的な傾向が強いことが要求される。 これは、総合職へ就く女性と同様である。「均等というのであ れば男と同じ仕事をしてもらわなければ困る」というのは、男 社会のかってな紳士協定であって、「結婚できなくなるかもし れないよ」などという忠告がなされるようでは、真の女性解放 とは言えないだろう。そして、このことはスポーツへ参加する 女性にもあてはまることなのである。

 さて、そこで質問である。女性は男性よりも体力や競技能力 が劣っているというのは本当だろうか。その答えはもはや明確 である。女性の方が体力が劣っているのではなくて、現在行わ れている体力の測定やスポーツのルールが、男性社会の論理の 基で生み出された男性的なものであるために、あたかも女性の 方が劣っているように見えるだけなのである。

 この点については、新体操やシンクロではどうかといった意 見もあるかもしれない。しかし、これも、「女性の美しさ」に 序列をつけているのであれば、ミス○○コンテストといったも のと基本的には同様のものであり、男性社会の論理に基づく競 争だといえる。これらの競技で求められる要素は、職場に求め られる「ほほえみ」と変わらないと思う。そもそも、女性的な スポーツには競争とか採点が似合わないのではなかろうか。

 確かに、スポーツへの女性の参加は好ましいものであると私 は思う。それは、男性的なものであったスポーツが[女性に] 解放されたということなのだろう。しかし、それは社会の中へ の[女性の]解放ではない。

 だからといって、どうすれば良いのかということは私には全 く分からない。言いたいことだけ言いっぱなしというのはヒキョ ウなのだが、こればかりはどうしようもない。中西ミツ子さん のような女のロンリがスポーツの中に現われてこないかなぁな どとただただ期待するしか、今の私にはできないのである。た だ、残業や転勤ですり減るばかりが、女の勤めではないと僕は 思うよ。


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