インターネットの通信媒体は、「イーサーネット」と呼ばれて
いる。この「イーサー」とは、100年前に「宇宙を満たす媒質」
と信じられたように、欧米では「全てを受け入れる媒質」とし
ての雰囲気を感じさせる用語だ。もちろ
ん、そこを流れる電子情報自体はインターネットプロトコルと
いう様式に規格化されているのだが、その電子情報の組み合わ
せとしての「情報」については、ありとあらゆるものが許容さ
れる。
ところが、その「情報」が人と人とを結ぶものである限り、個々 の人間関係を特定するチャンネルについてはそのプロトコルが 規格化されていなければならないし、できればすべての情報チャ ンネルが標準化されていた方が好ましい。だから、wwwに関し てはHTMLという規格が標準となっているし、電子メールも規格 化されているからこそお互いに異なる「メールソフト」間での 交信が可能となっているのだ。
しかしながら、私たちの研究においては、ことはそれほど容易 ではない。なにしろ、私の使っている統計処理環境と、 Dishman教授の使っている統計処理環境とでは、データファイ ルを共有できないのだ。もちろん、気象情報のように、インター ネット上でデータを共有できる仕組みも実現されている。しか し、共同研究をしている私たち二人がデータを共有するために は、お互いのフォーマット間の変換ソフトを作らなければなら ないのが現状なのだ。我々の利用しているデータ処理環境の完 全な標準化は、いつになったら実現するのだろうか。
前述したように、「データ処理環境の標準化」についての私の 見解は否定的だ。つまり、それぞれの科学者が「独自 (original)」の研究活動を行っている限り、データの生成・由 来は標準化されるはずがない。ある人は紙の上の曲線に物差し を当てるかもしれないし、ある人は自動センサからの入力をコ ンピュータに取り込むかもしれない。自動であれ手作業であれ、 そのデータの中身ではなくてフォーマットが異なることが、そ れぞれの研究を個別化(独自化)するのであるから、その異な るフォーマットの全てを共通にするような標準化の方法は存在 しないのである。
少なくとも、私の「統計処理」が今のやり方になっているのは、 心電図から得られたRR間隔などの時系列データファイルの解析 結果を、そのまま同じコンピュータで統計解析まで一括処理す るためである。Dishman教授の使っている環境で同じことをし ようとしても、その過程のどこかで必ず「フォーマット変換」 しなければならないのである。だから、私は彼の統計処理環境 を真似ることができないのだ。もちろん、その最後の過程であ る「論文発表」までは一括処理できないのであるから、途中を 幾つかに区分してデータ変換することは有効である。だからこ そ、彼の研究仲間は自分で行った心拍変動解析結果を彼に送付 して、統計解析処理を依頼できるわけである。しかし、「元々 のスペクトル解析結果に疑念が持たれたるような状況」では、 いかなる標準的統計解析も効力を持たない。
規格の標準化が可能なのは、電話とかファックスとか電子メー ルのように、誰もが同じように使える基本共通部分だけなので あり、それ以外の全ての情報は、独自のものである。そんなこ とは誰もが百も承知なのだが、「汎用コンピュータ」はあたか も全ての作業が標準化できるような錯覚を、我々に覚えさせる のではあるまいか。「汎用」のコンピュータソフトを使うとき、 いつのまにかその「汎用性」に吸引されてしまって我を忘れて しまうこともあるだろう。ここではそれを「魅力」と呼ぼう。
よくよく考えると、電話も伝言ダイヤルもポケベルもテレビも 電子メールも、みんな「魅力」がある。それを使っている自分 は、その世界から独立して独自の営みをしているように思いな がら使うのだが、それに慣れていくにしたがって、その媒質が 自分の·身体の一部であるかのようになってしまうようだ。 少なくとも、電子メールという「イーサー」の中の交信チャン ネルは、面と向かった話をするという「現実」とは異なる印象 を与える。つまり、問題は「どこまでが標準化されて、どこま でが独自であるか」という程度の問題ではない。「インターネッ ト」が与える標準化という「魅力」と、学者に要求される「独 自性」との間の、綱引きのような問題かもしれないのだ。
ジョージアという異文化での一年間の生活と、それでもほとん どの時間をコンピュータに向かって(多くの場合日本語で)こ れまで同様の「日常」を維持しているというインターネットの 恩恵とが、そういう問題を私に感じさせたのであった。