私には、2人の子どもがいる。最初の子ども(大祐)が生まれ たのは1994年5月のことであった。なにしろすべてが初めての ことでダッコをするのもビクビクしていた記憶がある。初めの 1カ月は妻の実家で育てられていたので、「父親」という実感 はなかったのだが、お宮参りも終わって自宅に来場してからは、 毎日が戸惑いの連続だった。何しろよく泣くし、よく寝る。中 でも困ったのは、あやせなかったこと。「お〜よしよし」なん て言ったて顔がひきつっているもんだから子どもは反応しない。
そんなある日、皆に見せようと大学の研究室につれてきた。実 験室のテーブルに無造作に置かれた我が子をみて、うちの教授 はいきなり近づくと、「あっばばばば〜」と全身であやし始め たのだ。いや、驚いた。いいオトナがなんでここまで自分を捨 てられるのだろうと感心するくらい、教授の肩書きを捨てて子 どもになりきっていたのだ。と、当の我が子は結構喜んでいる。 「なるほど、子どもをあやすというのはこういうものなのか」 としきりに感心させられた。しかし、いきなり態度を変えるわ けにもいかず、その場はついでに心電図だけ取って帰宅しても らった。
さて、いよいよ我が家での作戦開始。横になった我が子に向かっ て「あっばばばば〜」。自分を捨てるまでには時間がかかった が、そのうちこつを覚えた。と、あるとき、上を向いた息子の 眼前で笑いかけると笑顔を返すことに気づいた。笑顔は「ごき げん」の印。笑っている顔はかわいいし、なによりも泣かない (あたりまえ!)。こっちだって、笑顔をみている方が嬉しい。
でも、よくよく考えてみると、こんな、ようやく目が見えるよ
うになったばかりの何も知らない(はずの)赤ん坊が、なんで
「笑顔」に喜ぶのだろうか。試しに、ムッとした顔をしてみる。
すると、案の定、笑顔が消え戸惑いの表情となる。やっぱり
彼には、「笑顔」と「怒り顔」の区別がついているのだ。つま
り、「笑顔」は「快感情」を表すものであり「怒り顔」が「不
快」を表すということ、そのことを彼は生まれながらにして身
につけているといえる
。
ここでまた、考えた。そういえば、気持ちを落ち着かせる効果 を持っているのは相手の笑顔だけではない。何となく気が滅入っ ているときにも、無理にでも自分で笑顔を作ると気分が良くなっ てくる。つまり、笑顔を構成する顔の表情はそれ自体が気持ち をやわらげるシグナルになっているということだ。そして、こ のような自分の身の中の事柄が生得的なものだというのは何の 不思議もない。生まれたばかりの赤ん坊とはいえ、快適な時に は笑い、不快な時には泣く、という表現をする以上、逆に自分 の笑顔や泣き顔が本能的に自分の感情を支配しているというの は頷ける。
でも、神経でつながれた同じ身体の中の「顔」と「心」という
ならともかく、眼前にあるのは他人の笑顔なのだ。その表情が、
わずか20cmばかりの空間と彼の眼を通して彼の精神へ影響を及
ぼしているのだ。その「他人の表情の差異」をわずか1カ月や
2カ月の赤ん坊が弁別しているというのだ。なにしろ、この時
期の赤ん坊は、まだ眼が見えるようになったばかりで、自分の
手足でさえ自分に付随しているという意識がない
というのだ。それなのになぜ、それが父親か母親か、いやそれ
どころか男か女かだって区別できないくせに、なんだって、そ
の笑顔を「笑顔」として自分の身に取り込むことができるのだ
ろうか?
つまり、これが我が子との「笑顔の交流」に初めて接したとき の私の驚きであった。