ところで、眼前にある私の笑顔を見て子どもが微笑みを返すと き、そこには確かに「ポジ」の転写があるはずなのに、それを 媒介するいかなる物質も想定できない。つまり、なにもない空 間を介して笑顔の感情が伝わるわけである。このような遠隔空 間の感情伝達のことを、ここでは特に、「テレパシー (tele-pathy)」と呼ぶことにする。このような特殊用語を定 義すると、「笑顔の伝搬はテレパシーの一種であるけれども、 媒介物質が特定できないので生理学的には説明できない」といっ た言い回しができるようになる。さよう、「笑顔の伝搬」は生理 学的には説明できないのである。しかし、それは生理学的能界 の定め方がテレパシーの説明に向いていないだけなのであって、 その説明不可能性は「笑顔の伝搬というテレパシー」の存在を 否定するものではない。
では、生理学という説明体系は、本質的にこのようなテレパシー
の説明に不向きなのであろうか。じつはそうでもない。たとえ
ば、あるホルモンが血液を巡回しながら特定の目標器官に到達
することができるのは、多くの場合、その器官の細胞膜上に特
異的に存在する受容体に結びつくからである。この特定のホル
モンと受容体との特異的関係を特徴づけるのはその分子構造で
あると考えられている。また、DNAを構成する4つの塩基の
うち、アデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシト
シン(C)の2対が常に結合することを保証するのは、水素結
合を生じさせる分子構造の相補性である。これらの構造的対応は、鍵と鍵穴の対
応のように説明づけられることもある。つまり、「構造的ネガ」
の存在が、特定の分子間の結合を保証しているというわけであ
る。しかし、いくら「結合」といったって「ピッタリ」と接着
するわけではない。その「水素結合」には約0.2ナノメートル
(
メートル)程の空間がある。つまり、分子構造に
起因するネガ(鋳型)の生成と、「笑顔の伝搬」におけるポジ
の情報伝達は、ナノとメートルというスケールの違いを無視すれ
ば類似していると言えなくもない
。
もちろん、そんなことは絶対に言えないからこそテレパシーは 生理学の説明原理を超えるのである。そんなことはわかってい るのだが、もう少しだけこの「テレパシー」にこだわってみた い。