この半世紀に台頭した主要な交通機関は、高速列車(新 幹線)と飛行機である。先日たまたま福岡から山口、広島と旅 する機会があったのだが、博多の新幹線ホームに立った私は、 まず、方角が分からなくて戸惑った。初めてのそのホームで、 列車がどちらから来てどちらに行くのかがわからず、自分の視 点を見失ってしまったのである。隣で入線を待っていた車内販 売のお姉さんに「東京はどちらの方向ですか?」と質問したの だが、きょとんとして返事をもらえなかった。つまり、新幹線 は方向感覚を失わせるのである。動き出してからまた驚いた。 これまで特に意識することがなかったのだが、気をつけて見よ うとしても景色が見えない。眼には入ってくるのだが、それを 理解する間もなく過ぎ去ってしまう。次に驚いたのは、トンネ ルの多さである。これは特に山陽新幹線の特徴なのだが、余り にもトンネルが多い。たまたま、その暇を利用して携帯電話を かけようとしていたのだが、アンテナが三本立っていてもたち まち「圏外」となってしまうのだ。つまり、新幹線という道具 は、景色ならびに携帯電話を介する外部との神経接続に対して 抵抗力が強いとも言える。
これをもっと激しくしたのが飛行機である。ひとたび機
中の人となれば、外に広がる風景はおよそ地上の生活とはかけ
離れたもので、携帯電話ももちろん通じない。広島で乗ったが最後、
機外との接触は羽田到着まで絶たれることとなる。もし、物質
としての私の身体が何らかの「情報」だとするならば、それを
運ぶ飛行機は外部との接触が断たれた専用回線であるといえる。
その中を運ばれる私は、あたかも神経によって伝搬される情報
と類似している。これに対して、在来線を使って景色を楽しみ
ながら、時には携帯電話をかけて旅する私は、血液をゆっくり
と運ばれるホルモンになぞらえることができるだろう。
いづれにしても、私の意識や私の指令のみならず、私の生身を も運んでしまう交通機関は、速度が増すほど外部との意識の接 触を困難にして、目的地との実感的(時間的)距離を縮めてし まうのだ。その意味で、交通機関は我々の意識に干渉する神経 系なのであり、その移動速度の高速化にともなって、我々の神 経系は新たなる適応を迫られているのである。(つづく)