今、私はアメリカ・ジョージア大学の研究室でこの原稿を書い
ている。完成した原稿は電子メールによって東大・本郷の山本
義春氏に送付し、彼に印刷してもらって杏林書院に届くことに
なっている。ところで、実際のところ、私が「書いている」の
は紙の上ではなくてコンピュータの中である。より正確に言う
と、そのコンピュータに接続されたハードディスクのファイル
の中である。そして、もっと正確に言うと、そのファイルは、
私がジョージア大学の研究室に置いてあるコンピュータではな
く、日本の所沢にある早稲田大学キャンパス内のマシンに保存
されている。もちろん、そのハードディスクは、(一応)物理
的にはここジョージアのコンピュータと接続されているからこ
そアクセス可能なわけであるが、その間には何台もの(私の知
らない)コンピュータと不特定多数の人々が共有しているケー
ブルがある
。
つまりこれが「インターネット」なのである。「便利な時代に
なったものだ」なんていうCMのような言葉が連想されるとこ
ろである。そして、確かに私はその恩恵を受けている。でも、
「恩恵」と片づけてしまえるほど単純なものではない。実は私
が所沢のマシンを利用しているのはこの原稿に限ったことでは
ない。電子メールはいままでと同様に日本のマシンに接続して
送受しているので、所沢の学生との連絡も今まで通り不自由無
く続いている。それどころか、実験データも日本のマシンに送
付し
、
日本で行ってきたデータ処理環境をそのまま使って解析処理を
行っている。その結果や論議の一部は、所沢のサーバーに開設
している私のホームページに適時掲載し、それを読む日本人と
の論議(その内容も一部掲載)に備えている。
「やっぱり、恩恵じゃないか!」と思う方もいるかもしれない。
まあ、そういわれればそうとも言える。そういう方のために、
こういう問いかけをしてみよう。「じゃあ、私はいったいどう
してアメリカにいるの?全ての仕事を日本のコンピュータでや
るのだったら、日本にいた方が良いのではないですか?」もち
ろん、そんなに単純ではない。第一そのデータ自体はアメリカ
にいなければ入手できなかったはずだ。「でも、本当にそうか?」
と自問すると、これがそうでもない。実際のところ、当初の2
カ月はこちらで既に進行していた実験のデータをこちらのコン
ピュータから引き出しては、解析処理のために日本に転送して
いたわけであるから、その作業をこちらスタッフができるので
あれば日本にいても可能であった
。
まあ、そんなことはさておき、実はその作業は大学に来なくて もできる。というよりも最初に日本へのアクセス環境が整った のは自宅の電話回線からで、研究室に情報コンセントを利用で きるようになるまでの1カ月近くは、ほとんどの時間を自宅で すごしていたのである。私としては、その時期その時期の全て において、最も効率的に仕事が進められるように対処していた のであるが、その結果、大学への登校は「諸事の対処」という 立場にまで格下げになったのである。
そんな私に危機が訪れた。私のノートパソコン(IBM-ThinkPad)
を研究室で利用できるようにするためにインストールをする必
要が生じたのである。もちろん、私がやれれば良いのであるが、
その方策をコンピュータセンターのスタッフに尋ねたところ、
「こちらの仕事の都合もあるので、2,3日預からせてもらえれ
ばインストールをしてあげる」(つまり、その方法はいちいち
教えられない)というのである。やむなく私は預けることにし
た
。
その間いったいなにが起こったか?何も起こらなかった。とい
うより、何もすること(できること)が無くなってしまったの
だ。朝起きて大学に来る。コーヒーを飲んだ後は、もうおしま
い。図書館に行って文献でも読んでれば良いと思うのが普通だ
が、全ての情報をコンピュータの中に入れておいたので、その
キーワードすら定まらない状態で図書館に行くことがとても無
駄に思えてしまうのだ。コピー済みの未読文献を読んでみても、
線を引くのが関の山で、気づいたことを紙に書こうとすると、
その煩わしさに思考が止まってしまう。家に帰っても、夕食後
は寝るしかない
。今から
思えば、その危機は到着当初にもあった。コンピュータは使え
るものの、日本のマシンに接続できないものだから不便を感じ
た。しかし、それは様々な手続きやら家具や車の購入やらとあ
たふたしている時期だったので、それ自体は違和感が無く最初
の1週間は過ごせていたのだ。それに引き替え、今度は生活が
落ちついて仕事が起動に乗り出したところであり、しかもコン
ピュータごとなくなってしまったのだ。じつは、コンピュータ
が線で結ばれて世界中のどこからでも自分のホームディレクト
リで同じように仕事ができてとても便利だと喜んでいた反面、
そこには、「線につながれた自分」がいたというわけである。
つながれてなければ何もできず、思考停止に陥ってしまうとい
うのは、何と不便で何と惨めなことであろうか。いったい私は
独立した学者なのであろうか?
つまり、これが「インターネット」なのである。そしてこれは、
私たちを「情報」の(そしてコンピュータの)奴隷にする。少
なくとも、「研究」のあり方に著しく侵襲することは間違いな
い
。「情報」が「研究」に隷
属していた時代は良かった。しかし、その「情報」の「処理」
を競うように研究が切磋琢磨されたおかげで、「情報」が肥大
化し、その処理装置が革新の進歩を遂げた。ところが、肥大化
した「情報」を無くしてはもはや「研究」が成立しなくなり、
いつのまにか私たちの「研究」が「情報」に隷属するもののよ
うになってしまう危険があるということである。「便利だ便利
だ」と思っているうちにいつのまにか「安楽な生活に馴らされ
てしまう」という危機は、すでに40年も前に「運動不足病」と
いう概念で提起された問題ではなかったのか。これを「問題の
飛躍」と片づけてしまうわけにはいかないだろう。
さて、前置きが大変長くなってしまったが、この連載は当初、
「体育学研究における情報処理」という名目で依頼された。先
に述べたように、今や「インターネット時代」であり、「情報」
を単に研究の道具として安心していると足下をすくわれる危険
があるというわずかながらの警戒と、それでもこの便利な「道
具」の有用性を適切に強調したいと思い、「インターネット時
代のスポーツ科学」と変更した。もちろん、この「情報化社会」
が「からだ」に及ぼす影響を正しく評価するということが、体
育学研究の大きな問題提起にもなるであろうという期待も含ん
でいる
。