ところで、私のホームページはいったいどのような人々に見
られているのであろうか。私は数えたことはないのだが、アク
セスする相手の情報は私のサーバー上に記録されるので、いつどこ
からアクセスされたかという情報を集計することもできる
ようだ。でも、ときどき意外な読まれ
方をしているということに気づかされる。例えば、先日(1
月8日朝)私は、以下のような電子メール
を受け取った。
はじめまして、○○××と申します。現在、大阪に住んでおり ますが、このたび(多分4月頃に)N.Y.のAlbanyに 引っ越すこととなりました。主人は、アメリカ人です。私は、 現在グリーンカードの申請中で最終段階に入りつつあります。貴方の銀行口座のHP読ませて頂きました。とても参考になり ました。 …(略)…
さっき、アメリカのバンクに電話したところ、私自身の普通口 座がsocial security numberがないために、開設できな い、とのことでした。
…(略)…
そこで、最悪の場合は日本の普通口座にお金を置いていって、 落ち着いてから、また日本に帰ってきて(一年以内)こちらか ら自分の口座に送金しようかと…
…(略)…
去年の11月ごろから、○△銀行が普通預金口座に国際カード を発行して海外の現地通貨で引き出せる、というサービスをは じめました。×◎銀行もしていますね。△△銀行のように一 定額を下回ると、管理料を取られるということはありません。 これも、作って行こうか迷っています。
とにかく、このことで少し悩んでいます。なにか、ご存知でし たら、お教え下さい。宜しくお願いいたします。
いったい何なのだろうか?どうしてまた、私のところにこんな 内容のメールが届くのだろうか。もちろんこれは、よくある 「間違いメール」ではないし、不特定多数に宛ててばらまかれ たものでもない。そこに記されているように、この発信者は私 のホームページに書かれていた「銀行口座」という記事を見て 連絡してきたのである。でも、いったい何でこの私が「銀行口 座」についてホームページで解説してるのだろうか。じつのと ころ、このメールを受信したとき、私はそれを書いたことすら 思い出せなかった。びっくりして自分のホームページを見直し たところ、確かにあった。ただ、弁明すると、この記事は確か に「銀行口座」と名付けられてはいたが、アメリカでの銀行口 座の開設法とか日本からの送金の仕方について書いたものでは ない。ちょうど私と同じ時期にBostonでの在外研究を終える研 究仲間と、車の売却とか銀行口座の問題について電子メールで やりとりしていた頃、余ったドルの処理法について私が調べた ことを返信したついでに、(何かの情報価値があるのではない かと思い、)何気なくホームページに載せておいただけなのだ。 だから、このメールを見たときには、「いったい何で、こんな ものが参考になったというのだろうか?」という疑問が生じた。 というよりも、本当の所は、「書いた私自身が忘れているもの を、どうしてこの人は見つけられたのだろうか?」という疑問 の方が強かった。
このメールに対しては、以下のように回答した。
中村好男です。初めまして。私の情報がお役に立って光栄です。とはいえ、じ つのところ、そのことについては書いたことすら忘れていまし た。今、自分で見てみたのですが、あれはどうも帰国前の準備 の過程で日本の口座のことを記しただけで、あまり役に立つと も思えませんでした。そして、率直に言って、この手の問題は、 共通部分は多いとはいえ個人の事情によって解決策がことなる ものと思いますので、私の個人的な経験が役立つとは限りませ ん。
もうすでにご存じのことかもしれませんが、私は、アメリカ滞 在中にglobersというmailing-list
の 存在を知りました。過去の全てを遡って見ることはできません が、この年末には末尾添付(略)のような日本のキャッシュカー ドに関する交信もありました。…。もちろん、この事例とて個 別の問題ですが、思い切って○○さんの抱える問題点を相談 (投稿)してみてはいかがでしょうか。
ここに登録するには、
にsubscribeのmailを出すだけです。その後は、そのaddressに 皆のmailが配送されます。詳細は、
http://yt.com/hp/globers
をご覧下さい。
…(以下略)…
さて、この私の回答がどう役だったのかは不明だが、結局こう
いうものなのである。つまり、私の書いたホームページは、相
手の知りたい「キーワード」(この場合は「アメリカの銀行」
)が含まれているという理由で世界の
あまたの情報源の中から抽出され、そして、相手の求める文脈
に布置された上で、相手の読み方で解釈される。この事例の場
合、相手方(○○さん)は、「アメリカの銀行」というキーワー
ドにヒットした幾多のホームページのリストのなかから、
「Yoshio Nakamura : Life in Georgia」というタイトルに自
分の求めている「何か」を感じる。それを開いてみると、自分
の知りたいことが直接には記されているわけではないが、「こ
の人なら何か生活の実体験に基づいた役立つ情報を提供してく
れるのではないか」と感じる。そこで、電子メールで質問する。
ということになったのだろう。
もちろん、幾千万とも数え知れない世界のホームページの中か ら抽出されたのだ。それを私は「光栄」と言ったが、じつのと ころ単なる社交辞令であって、「心底うれしい」と感じたわ けではない。何故か?まあ、率直に言ってしまえば、「今回の 問いかけ(アメリカでの銀行口座の開設法)自体が余りにもロー カルかつ個人的問題で、その解決が私や社会にとって有用な知 的蓄積となるわけではない」ということなのだろうが、それよ りも、なにかこう、「自分が刻まれて誤解されているような違 和感」に起因すると言った方が良いだろう。
ちょっと回りくどいかも知れないが、このことをもう少し詳し く説明しておこう。以前(第9章:12月号)「ホームページは 私の分身である」と言ったが、彼女は確かに私の分身を見た。 ただ、その分身は全体からみるとほんの小さな断片に過ぎない。 彼女にとっては、私の全体像、すなわち、私がどういう人物で あるかとか、何のためにアメリカで生活したかなんてことは、 全く重要ではないのだ。だから、その目的のページ以外の私の ページを見ることもない。いわば、私のホームページのその箇 所だけが「切り取られ」、彼女の分身のスクラップブックに張 り付けられたといえる。ところで、このような「切り取られ方」 は何も今回の例に限らない。インターネットに限らず、印刷物 や口演の場合であっても、メディアを仲介するありとあらゆる 情報伝達は、話し(書き)手というよりはむしろ聞き(読み) 手の文脈で読まれるからである。しかし、これまでのメディア での情報伝達においては、著者や話者あるいは「その(一冊の) 本」とか「一束の朝刊」といった人や物の存在を認識せずに内 容に立ち入ることは困難であっただろう。だから、中に書かれ ている言葉は、概ね著者の文脈に置かれたままの形で読まれる ことが多かった。つまり、「著者−媒介物(本・論文・記事) −文脈−単語」という順序で読みとられていく。しかし、機械 的に検索されたホームページの場合、この順序は逆転する。読 み手は、まずは自分のキーワードを見つけ、次に、そのキーワー ドを含む「ページ」を見つける。そして、そのキーワードの前 後を読みながら、(読者にとっての)意味を探る。運良くその ページ全文が読まれることはあるかもしれないが、それより深 く、そのページが置かれたところの著者のコンテクストまで理 解に努めることはほとんど皆無と言っても良い。そんなことを 「読みとる」ぐらいなら、(読者の)興味を著者に対して単直 に(メールで)問いただせばよいのだ。
かくして、著者が熟慮を重ねつつ抽象した言葉の数々は、その 置かれる微妙な文脈とは全く無関係に、切り離され、整列され、 関係づけられる。これは喜ぶべきことなのか?