忘れないうちに急いで言っておくと、これはまさしく私たち科
学者がやっていることに他ならない。最も典型的なのは「文献
検索」であろう。なにしろ、まさに前項で私が指摘した「単語
からの抽出」の原点だからである。私たちはまず、自分の解く
べき問題と興味に従ってある一つの単語(キーワード)を思い
浮かべる。それをデータベースに照会して、該当(ヒット)す
る論文を抽出する。この検索対象は、かつてはタイトルだけだっ
たが、現在はアブストラクト全文までカバーされており、近い
将来は本文を検索対象とすることも可能になると予想される
。
がいして、私たち科学者はこの文献検索のやり方を受け入れて 便利に使用している。でも、よくよく考えると、この壮大な文 献検索システムには何か人知を超えた魔力が潜んでいるような 気もする。なんて言うのは間違いなく言いすぎだが、少なくと も、一つ一つの雑誌の編集作業を全て無に帰す働きがある。ど ういうことか。いいですか、例えば、この体育の科学という雑 誌には編集者の意図を反映した秩序がある。試しに手元にある 本年1月号を見てみると、目次に続いて特集記事があり、二つ の連載、読者からの意見、研究報告、Book Review、国際会議 リポート、と続き、最後は編集後記となっている。もちろん、 「特集」が各号の目玉なのだが、そこに置かれる数々の論文 (1月号の場合は8本)は担当編集委員の意図を適切に伝える ように丁寧に順序づけられて配置されている。さらに、冒頭に はそれらの論文群の読み方のガイダンスを含んだ「はじめのこ とば」が(1月号の場合は)見開き2ページで布置されている。 つまり、雑誌というのはそういうもので、ちまたに氾濫する情 報を如何に整列させわかりよく組み立てていくか、それによっ て編集者の意図が読者に伝わる、そしてそれが、前章(2月号) に述べた「編集権」を成立させるのだ。ところが、そんな編集 者の努力も、キーワードの文献検索システムにかかると、むな しく消滅してしまう。本当は「跡形もなく」と言いたいところ だったのだが、かろうじて「Journal:」欄に雑誌名の痕跡が残 るというわけだ。
もう一度言おう。雑誌というのは数々の情報を含んだ記事(論
文も含む総称)を整列し、束ねて、表紙でくるんだものである。
その表紙にはたいていの場合写真やイラストが配置され、その
雑誌の「顔」として読者に購読を呼びかけている。ところが、
文献データベースに登録されるときには、便宜上論文や記事の
順序はかろうじて保たれるかも知れないが、表紙が登録される
ことはない。そして、キーワードで検索されるやいなや、論文
題目がトップに躍り出て、雑誌名はその付属部品となる。つま
り、表と裏とがひっくり返るのだ。
でもじつは、このような「切り取り」は文献データベースが構 築される前から行われていたことだ。たいていの読者にとって 必要なのは各雑誌に含まれる論文のほんの一部に過ぎず、目当 てとする論文を見つけると、その箇所だけを「コピー」して持 ち帰る。これはまさに、「切り取り」である。つまり、学術雑 誌の編集においては、集められた論文を順序よく整列させるこ とには喜び(価値)は少なくて、それよりも、掲載以前の論文 採択に編集の価値があり、編集者の喜びもある。そして、論文 採択の過程を権威づけて、その喜びの一部を関連領域の査読者 に共有させようというpeer reviewの仕組みこそが、100年近く 前から科学が培ってきた「編集権」なのである。だから、文献 データベースとその検索システムがそれぞれの雑誌を「切り刻 んだ」ところで、権威ある学術雑誌にとっては何の傷にもなら ないかもしれない。でも、本当にそうなのだろうか?
幸運にも、学術論文の文献データベースにおいては、一つひと
つの論文が基本単位になっていて、論文自体の文脈が切り取ら
れて再配置されるようなことは、(少なくとも今のところは)
ない
。つまり、著者の構築した境界は分解されることなく保護
され、読者(検索者)にそのまま提示されている
。しかし、そのように保護されて読者の
手元に渡った論文コピー
が、そのまま著者の意図どおりの文脈で読まれ
るかどうかは甚だ疑わしい。なんとなれば、先に(8, 9月号:
第5, 6章)触れたように、電子文献検索が普及して取得文献数
は増えるもののそれを読む時間が増えるわけではなく、1件あ
たりの論文のページ数が増えているにも関わらずそこから読み
とることのできる情報が少なくなる傾向にあるからである。つ
まり、一部だけを「拾い読み」する文献数が増える傾向にある
というわけだ。
おわかりいただけたであろうか?これを読んでいる皆さんには、 この「論文飛ばし読み/拾い読み」の経験はありませんか?一 部(例えばアブストラクト)だけしか読まずに、そこに記され ている(と理解した)内容を自分の論文で引用したことはあり ませんか?今のところ読者は論文の完全コピーを手元に保持す ることで安心するような性向がある。しかし、それを自分の論 文中に引用するときには、結果や論議の一部を切り取って自分 の文脈で再構築するはずである。論文が氾濫して必要な情報だ けをすばやく抽出することが求められる現在では、その「切り 取り」能力が問われ、だからこそインターネットにかけられる 期待も大きくなるというわけだ。
ところで、本当に問題なのはそんなことではない。本当に問題
となるのは、「書いた論文が読まれない」ということなのだ。
最近の論文はますます論議が充実し、引用文献数も増加しつつ
ある。論議が充実するのは結構なのだが、いざそれが読まれる
段になると、まずは「キーワード検索」による洗礼を受けた後
で、アブストラクト。結果が読まれれば良い方で、著者が最も
力を尽くした論議の顛末とその文脈を全て読んでくれる読者は
極めて少ない。
先にNCBIのEntrez Searchは、ヒットした文献の関連文献が表
示されるということを紹介した(9月号:第6章)。そして、上
述のように今のところはまだ、個々の論文は不可分な単位とし
て関連づけられている。しかし、本文全文の文献データベース
ができたとしたら、それでも各個の論文を基本単位として保持
し続けるであろうか。論文の全文を一つ一つ不可分なものとし
て画面に表示するのはとても冗長であるから、その関連づけに
あたってはほぼ間違いなく複数の論文に共通する引用文献の存
在する段落あるいはそのキーワードの前後の文章だけを関係づ
け、再配置するであろう。その時もはや一つ一つの論文は不可
分な単位とはみなされなくなるだろう。文献検索システムによっ
て、「雑誌−論文」の表裏関係がひっくり返って物理的な雑誌
の表紙が隠されてしまったように、「論文−キーワード」の関
係も裏返しになってしまい、「キーワード→段落→論議全体→
論文全体」というような順序で読まれることもあるだろう。
読まなければならない文献数が増えれば増えるほど、その読み
とりの深度は浅くなり、著者の文脈がますます薄れていくのだ。
そして、いつのまにか私の論文は「アメリカの銀行口座」に関
するものだと思われてしまうかもしれない。
インターネットはしたたかなのだ。