このように、連載のまとめを書いて、しかも、期待された事柄 はもう出尽くしたとまで言っているのだ。本当なら、正常な精 神の持ち主なら、ここで連載が終了して今回が最終回だと思う のが当然である。しかし、である。じつはそうではないのだ。 本当の所は、この連載で私が意図した主題は二種類あるのだ。 一つは、「スポーツ科学研究におけるインターネットの利用と その(科学自身に対する)波及効果」であり、これについては、 この一年間で概ね書き尽くすことができた。では、もう一つと は何か。それは、「インターネット時代を生きる人々の<から だ>」である。
こっそり打ち明けると、これは本当に私が腹蔵していた野心だっ
た。なにしろ私は、3年ほど前から「インターネット時代の健
康観とスポーツの意義」という研究を密かに企画していた
ほどで、残
念ながらジョージアでの在外研究が決まって、こちらの方は手
がけられないうちに、「やらなくて良かった」ということに落
ち着いている。そのような私事はさておいても、やっぱり、こ
の<からだ>の問題は、体育にとって特に重要に違いない。な
にしろ、「体」を「育」なわけだからである。そんなわけで、
じつは私は、第2章(5月号)で次のように記している。
…この便利な「道具」の有用性を適切に強調したいと思い、 「インターネット時代のスポーツ科学」と変更した。もちろん、 この「情報化社会」が「からだ」に及ぼす影響を正しく評価す るということが、体育学研究の大きな問題提起にもなるであろ うという期待も含んでいる。
もちろん、私とて、当てもなく頼りもなくこの問題に取り組も うとしているわけではない。なにしろ、同種の問題の先例とし て、私たち体育学者は既に「運動不足病」という問題に取り組 んできた実績がある。これは、確かに、「機械化、自動化、省 力化」という「社会変化」に適応する<からだ>の変化を看過 することなく操作することで、<からだ>に対する人々の理念 を保持しようとする努力(ムーブメント)であった。もちろん、 時代とともに身体観が変化するわけで、「理念」といってもそ の時々の「社会通念」に他ならないのであるが、ともあれ20世 紀の後半には「健康」という概念を<からだ>理念の筆頭に掲 げて、人々に運動の効用を説いたという事実が、体育学研究の 一部には確かに存在した。この観点から言っても、「インター ネット」は、人々を益々机上に束縛し、座業従事者を増や すことで運動不足に誘導するネガティブな文化装置である。な らばそれだけで、「インターネット時代の(さらに必要とされ る)健康増進装置」として、新たな運動処方を開発することも 必要だ、という意見には説得力があるだろう。
もちろん、それは安易な発想である。なぜな
ら、「社会」の変化を「身体観」の変化と独立させて考えるこ
とが無意味だからである。40年前に、クラウス博士らの提唱す
る「運動不足病」というモデルが広く受け入れられたのは、た
だ単に、「機械化・省力化」という社会変化があっただけなの
ではない。第二次世界大戦後の国家間同盟の再構成(すなわ
ち東西冷戦への突入)という政治的背景、テレビ網が全米に張
り巡らされたという情報環境の変化などがあり、そしてなによ
りも、世紀前半に感染症を壊滅させた医療技術に対する人々の
信頼と、そのような医療技術を受け入れるための生理的身体観
が人々の間に熟成されていたことが、「運動」という身体技法
を人々に信じ込ませた基盤であることは確かだろう。
さて、そこで問題は今後である。これからの社会はどのように 変化し、それに伴って<からだ>にはどのような影響が及ぶの か、また、その<からだ>の変化を手をこまねいて見ているだ けではなく、我々が思い描く「理念」に従って操作・育成する ためにはどのような技法が適切なのか、それを知るためにも これからの社会で人々が抱く身体観をどのように認知していく のか、ということが、「運動不足病モデル」にかわる新しいモ デルの提示には欠かせないと思うわけである。
これからの社会がどうなるか。そんなことは私にはわからない。 でも、わからないながら、それを「インターネット時代」とい う切り口でとらえていこうとする。でも、先人が「運動不足病」 というモデルを提示したように、時代の変わり目に時宜にかなっ た体育学のモデルを提唱することが可能なのではないか、とい うことだけが、唯一信じられることなのである。
その「時代」に人々が抱く身体観はいかなるものか。それだっ て、私にわかるはずがない。無理な予測ならしない方がよい。 ましてや、「理想の<からだ>」なんてものが想定できるわけ がない。大切なのは、全ては「成りゆき」だということ。そし て、その「成りゆき」を見定めるために私たちはありとあらゆ る準備をしておくことができるということなのだ。
ただし、身体観については、私には少々の当てがある。それは、 私たちが自信の身体を理解するとき、既存の装置でなぞらえる ことが多いということだ。たとえば、筋肉をエンジンとなぞら えたり、脳の作用をコンピュータになぞらえたりする。ベルグ ソンは大脳を中央電話局にたとえた。かつての交換台のように、 受け取った刺激を留保したり待機させたりしつつ、選ばれた特 定の運動機関に伝達するというなぞらえは、神経系の仕組みを 理解する上では好都合である。コンピュータの開発は記憶の仕 組みや小脳の働きを理解する上では格好のなぞらえを提供した。 電気回路によって世界中に広まったフィードバックという仕組 みは、ホメオスタシスを維持する生理機構に備わった本質的な 要素であると信じている生理学者も多い。もとより、ホメオス タシスという概念ですら、19世紀に生み出された数々の自動機 械がなければ、多くの人の信じるものにはならなかったであろ う。もう少し言うと、初期のノイマン型コンピュータしか想像 できなかった時代には、シリアルな情報伝達しか想定できなかっ たものが、並列型コンピュータの発明によって同時多発情報伝 達の生理的意味と効用が発見されるようになる。つまり、現実 の目に見える装置あるいはその仕組みは、身体の生理的機構を 理解する上での良い手助けとなるばかりか、それら装置の現存 こそが生理的身体観の根拠となる場合もあるのだ。
さてさて、では、インターネット時代にはどのような発明があ り技術革新があるのか。これについては、今後のことをあげる までもない。ベルグソンがなぞらえに利用した中央電話局はも うない。もっと末端に近いレベルからたくさんの交換器が自動 で接続している。「それは、自動化された多シナプス反射じゃ ないか!」というなかれ。だって、インターネットのやり方は パケット通信といって、情報を細切れにして一つ一つはどこを どう通っても構わず、最終的に目的地にたどり着いたところで 復元される。こんな神経接続がどこに存在するのだろうか?そ れどころか、wwwでは「中央」が無い。それぞれのサーバーは 一応「中枢」とは呼べるかもしれないが、それは世界中に散ら ばっている。たとえて言えば、筋肉も内臓も皮膚もそれぞれが 中枢機能を持ち、それぞれが全体の機能維持に貢献する。こん な仕組みは今の生理学では想定できない。じゃぁ、これは荒唐 無稽なのだろうか?もし私がまっとうな生理学者ならばYesと 言おう。しかし、私としては、そんな新しいなぞらえの可能性 を否定する自身はとうていない。
と、いうわけで準備は整った。この連載のとりまとめに入った かと思わせた本章は、こうして、新たな問題への船出の鎚とな るのである。「えっ、それじゃぁ、あと12回(1年)も続ける つもりなの?」と非難が浴びせられるかもしれないが、いやい や、そんなに保ちはしません。たぶんあと3、4回。多くても 半年程度と言わせて下さい。それまでは、なんとか、なんとか、 この連載の継続に、皆様方の暖かいご理解を賜りたく、とりあ えず新年度の章を閉じさせていただきます。