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その問題点

と、まあこのような研究計画が当時の私の頭の中を去来した。 そして、去来というくらいだからじつのところは、この研究計 画は文書にすることもなくgif、したがってどこに申請することも なく雲散した。もし一年後からの在外研究の計画がなければ上 記よりももっと具体的な計画を立てて、たとえ研究費が充足さ れなかったとしても何らかの予備調査に入ったであろうことは 容易に予想される。そして、今となっては、在外研究の計画が あったことを幸運に思うほか無い。

何故か?そりゃそうでしょ、やっぱりこの計画じゃぁだめです わね。なにしろ、当時の私は、恥ずかしながら、インターネッ トがメディアであるという視点さえ欠けていた。もちろん、そ れが電子メディアであるという知識が欠けていたわけではない のだが、つまり、電子メディアの先例としてインターネットよ りも前に電話があり、もちろんテレビもラジオもそれにあたり、 古くはグーテンベルク以降の出版物がマスメディアの先鞭だ、 という認識が欠けていたというわけである。それどころか、メ ディアをコミュニケーションの媒介としてとらえるならば、服 装も髪型もピアスもチャパツもみんなメディアなのである。もっ といえば、手話も発語も「メディア」という意味では上記すべ てと同等なのだgif?つまり、 ありとあらゆるリテラシーはメディアリテラシーといっても良 いほどあらゆる形態あらゆるレベルでコミュニケーションのメ ディアがあり、そういえば「運動習慣」だって「引き締まった 身体」だって「たばこ嫌い」だって、清楚な服装や髪型と同じ く記号的価値を生み出すわけで、やっぱりメディアなのだ。そ のように考えていくと、1970年代後半から隆盛したフィットネ スムーブメントは、専門家の生み出した健康情報を自らの身体 に還元する手法を消費機構の一部に組み込んだという意味で、 身体のメディア化ならびにその標準化に貢献したというわけな のだ。と、まあ、このような視点が当時の私には決定的に欠け ていたのである。そして、インターネットに極度に依存したジョー ジアでの私生活を通じて、自分の身体が自分の皮膚によっては 隔てられていないというメディアの侵襲性を実感したのだった。 たぶん、インターネットの利用者が増えてそれに我々の生活が 依存してゆくにつれて、自分をコントロールするはずの神経回 路が皮膚によっては隔てられていないというような「身体観」 を抱く人が増えていくのではないかと想像できる。

結局のところ、運動習慣をとるかテレビをとるかマンガをとる かアイビールック(もう死語か?)を取るかというのは、ある 人物がそれぞれの個々のメディアについて、どのメディアリテ ラシーがどれだけ高いのかという、いわば「性格」に依存する ということになる。そうなると、単に「インターネット時代」 への適応戦略として「身体運動」を位置づけるだけでは、問題 解決には及ばない。「健康」を御旗にすること自体の意味も問 い直されなければならないかもしれないのだ。皮膚から神経へ と浸食していく身体のメディア化こそが、21世紀に問われる課 題となるからである。以下次号。



Yoshio Nakamura
Mon Dec 27 10:02:29 JST 1999