ところで、図 の下半分は生理的体温調節系
だとしても、上半分のフィードバック系については文化・社会
的な適応の産物であり、この両者を併列して「体温調節機構」
とするのは一般的ではない
。しかしながら、容易に気づくように、「発汗」
という現象が体温調節のための生理応答だとしたら、「汗を拭
う」という行為は「発汗応答」の効果に影響を与える。もとよ
り、「着衣」という行為そのものが「発汗」などの原初的生理
応答に多大な影響を与えていることは自明である。つまり、自
律神経を介した < 皮膚の内側 > の応答と、体性神経・骨格
筋を介した < 皮膚の外側 > の応答とは相互に干渉している
(交互作用がある)のである。ところが、その両者を併せて
「体温調節機序」を論議したり「交互作用」について検証する
ことは、少なくとも生理学的には不可能だ。そこには、 < 皮
膚 > という強固な概念の壁があるのだ。しかし、目に見えな
い < 神経系 > の<存在 > を確信するのが生理学的信念
だとしたら、(目に見えない)その < 神経系 > の中に <
衣服の着脱機序 > が < 存在しない > というのも生理学的
信念に過ぎないわけで、 < 神経系 > の作用が皮膚の内側に
留まると考えなければならない理由は、生理学的信念以外には
ない。だから、 < 皮膚の内側 > と < 皮膚の外側 > の体
温調節機構を敢然と区別して切り放してしか考えないのは、生
理学的にはまっとうなことなのではあるが、それはやはり、生
きている身体あるいは体育の問題を解くためには不自然な思考
法である。そして、「空調に生きる身体」という20世紀後半以降の
身体問題を解決する上では、もはや従来の生理学的なアプロー
チだけでは用をなさないといっても良いだろう。
だから、私はあえてその < 皮膚 > という境界を一度取り払っ
てみたいと思うのである。もちろん、クロードベルナールが
「内部環境」という概念を提示して以来、すでに「環境」が
<皮膚の内側 > に入り込んでしまっているのだが、それで
も血管壁の細胞を「内皮」と呼ぶほどに、生理学では「皮」が
身体と環境の境界であるという認識は根強い。そして私自身も、
その境界の存在自体を否定するわけではない。しかし、それを
すべての思考・論理の区分として前提するのを差し控えてるこ
とによって、いったん身体の境界を外に拡張してみるという思
考実験をしてみようと思うのである。そうするとどうなるか?
まず第一に、身体の境界としての皮膚の権威が失墜する。とい
うよりも、身体の境界を定めることができなくなる。そして、
周囲にあるありとあらゆるものが身体の一部となる。第二の皮
膚としての衣服も自分の身体だし、空調によってコントロール
された環境空気も < 身体の一部 > となる。もし近くに他人
がいれば、同じ空間を複数の人間が共有するということもあり
得る。居室の壁も照明も、家具やキッチンも < 身体の一部
> として自己の制御範囲に含まれるのだ。
誤解されないうちに急いでいっておくと、この「 < 皮膚 >
という境界を取り払う」という考えは私独自のものではない。
本当は私の考えていたことと言いたいのだが、どうやって言い
訳しても、この表現は、市川浩氏の受け売りなのである。正直言って、私はそれ
を読んだときは驚いた。眼から鱗が落ちたというわけではない。
そうではなくて、このような考え方がすでに30年も前(市川が
影響を受けたヴァレリーやポンティをオリジンとするともっと
ずっと前だし、ハイデッガーまで遡ると100年以上も前)から
広まっていて、ある種の人々の間ではもはや常識とまでなって
いるようなのに、この私と言えば生まれてこの方40年も経過し
て、物心ついた頃からはずっとその市川の著作と同じ時代に生存
していたはずなのに、自身がそのように考え始めるまでは「そ
の存在」にすら気づかなかったということに驚愕したのであった。
ではなぜ、私が「その存在」に気づかなかったのかといえば、
それはおそらく、私が「生理学的信念」にとらわれすぎていた
ためなのだと自省している。
ともあれ、受け売りついでに少しばかり市川の言葉を引用してみよう。
... われわれの身体は常識的には皮膚で表面を限られて いるわけですが、生きられる身体を考えた場合、内と外とい うのはいろいろなところに境界をおくことができます。 ... われわれが道具を使うとき、道具が身についたもの になるには、道具が身の内にならなければならない。道具の 先端が身の先端になるんですね。靴をはいている場合も靴の 底の振動を足の裏で感じているのではなくて、靴の裏で地面 の凸凹や芝生の柔らかさを感じます。 ...![]()
そうなのだ。靴も眼鏡ももはや身体の一部なのであり、それな
くして外界(環境)と接することができず、それなくしては知
覚が成立しない。そして、問題はその先にある。私が新しいア
イディアをまとめようとするとき、よく鉛筆と紙を使う。紙の
上に鉛筆書きしながら思い浮かぶ概念を再構成するのである。
これが万人に通用する手法なのかどうかはしらないが、少なく
とも私が「メモ」という行為をするとき、書くための運動神経・
骨格筋−書かれた文字−視覚入力は、一貫して「思考」という
行為の一部となっているのだ。そしてその時、「書かれた紙面」
は、図 に記したところの効果器(筋)と受容
器(眼)を結びつける媒介(メディア)となっている。アセチ
ルコリンやノルエピネフリンなどの神経伝達<物質>が神経
系の一部であると認めるならば、なぜその紙面という<物質
>が、同様に思考を支える神経系の一部であると認められな
いのであろうか。もし < 皮膚 > という境界の絶対性を疑っ
てみることができるのだとしたら、生理学的 < 内部環境 >
における媒介物質と、<皮膚の外側 > (外界)のメディア
との間の差異を前提とすることもできないだろう。つまり、
「メディアは < 神経系 > の一部である」とも言える。