さて、そのように「メディアはテレパシーを媒介する」のだ。
そして、インターネットはそのようなメディアの新たな形態と
して、最近登場したというわけだ。それは、コンピュータ
技術の革新とともにあまりにも自然に、しかし、従来の、新聞、
電話、ラジオ、テレビといった巨大メディアの延長としては、
あまりにも意表を突いたコミュニケーションを可能にしたがた
めに、様々な可能性を期待させ、かつその一部を実現した。そ
して、それに伴って新たな技術革新が想像されたり、社会的影
響や既存メディアとの競合が問題として提起されることも多い。
でも、ちょっと待って下さい。社会や文化はいいとして、それ
じゃぁ肝心のヒトの身体はどうなるの?インターネット時代を
迎える私たちの身体には全く影響がないと放置できるのだろう
か。
私は、この問題を21世紀の体育学が貢献できる話題だと思って いる。そして、現時点で私が想像しているアプローチは次の通 りである。
皮膚の境界を取り払うという思考実験によって、「道具」あ るいは「メディア」と身体との融合を説明することはできる。 しかし、それは既存の知識体系の中では単なる戯言に過ぎな い。「<メディア神経系>の作用が生理学的身体内部にまで 及ぶ」というのであれば、既存の生理学体系と矛盾しない包 括的説明体系を用意すべきである。たとえば、今回は「笑顔の ポジ転写」の可能性について言及したが、これはまさに戯言 の一つであろう。なぜなら、如何なる表情であれ筋肉の動き は中枢からの制御の産物であるから。ただ、表皮での感覚情 報が(中枢を介さずに)直接に筋肉の状態に影響するという 観念を生理学が受け入れるならば(あと一歩のところなのだ が)、その戯言は仮説のレベルぐらいまでには昇華する。
インターネットは我々の身体・生活に影響を及ぼす革新的技 術である。それは、肉体あるいは精神としての身体にも影響 を及ぼすわけであるが、それとは無関係に我々の「身体観」 自体にも影響するかも知れない。梃子(てこ) にしろ 内燃機関にしろ電話にしろ自動制御機器にしろコンピュータ にしろ、これまでに開発された様々な新技術は我々が身体を 理解・認識する上での様々な「なぞらえ」を提供した。イン ターネットは電話網にも似たネットワークの一形態であるが、 そこで創造される新たなコミュニケーションの仕組みは、従 来とは異なった新たな身体観の創生を可能にするかも知れな い。
この時代の体育科学は、「機械化、自動化、省力化」を可能 にした道具・技術を、「単に筋肉活動だけに影響してエネル ギー消費量を抑制する装置」として抽象し、それをネガとし たうえで、身体運動の重要性を説くことに邁進した。もちろ ん、そこでの「身体運動」からも「エネルギー消費」の要素 だけが抽象された。もちろん今では、そんな単純な抽象を信 じる人は少ないが、それらの道具・技術を、「身体の一部と しての外部環境の変化」として再評価することで、新たなメ ディアとしての「インターネット」の影響を考える上でのモ デルが提供されるかも知れない。
これまでの技術革新はことごとく人々を魅了し、その生活を 依存させた。もちろん、いわゆる狭義のメディアについても、 それなしでは現代人の生活は成り立たないことも自明である。 だから当然、この「インターネット」についても今後我々が 依存するであろうことは容易に想像できる。そしておそらく、 そこで求められるであろう身体技法については、現代の我々 が用意している「体育」とは異なるものになるであろう。
まあ、どれをとっても、事はそう簡単には進むまい。しかし、 アプローチだけでも考えておかなければ体育学者として窒息し てしまいそうだ、というのが、私がこのような馬鹿げた思考に 走ってしまう本当の理由なのかなぁ、とも思うのである。