マクルーハンの「メディア論」の主張は、次のようにまとめることができるだろう。
(1) 書字(文字)技術
(2) 印刷術
(3) 電子技術
である。
そして、この主張をするために、以下の理論を構築した。
日本語で「メディア」と言うと、「マスメディア」のことを 意味することが多い。しかし、英語の原義は「中間(単数形 はmedium)」であり、「あいだを取り持つもの」という意味 で「媒介物」さらには「手段」という含意を持つ。すると、 あらゆる道具は対象との「あいだを取り持つ」メディアだし、 当然のことながら話し言葉(音声)も、人と人とを取り持つ メディアである。だから、この世の中に存在する物も事も、 おおよそ人間が認知できるものはすべてメディアだというこ とになる。もちろん、「あらゆる文化装置がメディアである」 ともいえる。そうなると、いったい「メディア」という語は 何を区別する用語なのかという疑問も生じるが、これは、以 後の理論の定義として存在すると考えれば納得できる。
これが、マクルーハンの「メディア論」の主題である。一般 的に「メディア」というと中性でそれ自体が意味を持つわけ ではないと考えられることが多い。重要なのは内容であり使 い方だというわけだ。しかし、「内容」は媒体形式(すなわ ちメディア自体)に比べると本質的ではないというのが彼の 一貫した主張である。普通に生活しているわれわれがメディ ア自体の発するメッセージに気づかないのは、すでにそのメ ディアのメッセージに馴化して麻痺しているからなのだ。そ して、新たな技術の顕現すなわちメディアの出現がきっかけ となって人間世界にもたらされるスケール、ペース、生活パ ターンの変容の重大さは、そのメディアが定着した後の「内 容の問題」に比べると、とてつもなく大きい。メディア自体 が発するメッセージを理解することが大切であるというのが、 マクルーハンの主張である。
さて、メディアのメッセージに耳を傾けたとき最初に気づくの
は、じつはメディアは「対象との媒介」というよりはむしろ
身体の一部であり、その個々のメディアの発明によってわれ
われの肉体器官が延長もしくは拡張されるということである。
トンカチは腕の拡張であり、望遠鏡は眼の拡張、メガホンは
声帯の拡張であり、車は足の拡張ということになる。これが、
「人間拡張の原理」である。
メディアは、身体を拡張させることによって人間に「力」を
与えると同時に、その神経系に影響を及ぼし、感覚を麻痺さ
せたり感度を高めたりする。たとえば、車輪の発明によって
身体や物の移動は容易かつ迅速になったが、移動に関する人
間の関与の度合いは減少した。このような「関与の低下」に
伴って、(延長された身体による)力の発揮やスピードに対
して感受性が鈍くなった(麻痺した)。靴を履いて歩くのが
自然になったわれわれには、もはや靴底こそが皮膚となる
。つまり、靴を
履く限り本来の皮膚感覚は麻痺するのだ。また、われわれが
書字ならびに印刷文化に触れるとき、単に「筋・骨格系」だ
けが関与するのではなく、われわれの高度な解釈機能まで含
めた全神経が関わりをもつ。「印刷物がわれわれに世界を見
させるとき、それは眼にあてがわれたレンズというよりも大
脳に直接差し込まれたレンズである」
と言っても良い。その結果として、
印刷文化は、視覚の役割を異常に高め、触覚や聴覚などの諸
感覚を抑圧した
。
これらの「感覚比率の調整」に関して著書から引用すると、
以下のような記述がある。
- いかなる発明あるいは技術も、われわれの身体を拡張 ないし自己切断したものである。
- われわれは中枢神経組織が拡張され露出されたとき、 それを麻痺させなければならない。
- 電気の時代に、われわれは全人類を自分の皮膚として まとっているのである。
これは、前項の延長である。つまり、メディアがすでに身体
の一部となり、複数のメディアが人類の生身を「媒介」とし
て接しているとき、それらは既に<神経系>の一部を構成し、
身体感覚を形成している。したがって、あたらなメディアに
暴露されたりメディア間の作用に変化が生じたとき、一人一
人の身体感覚もまた変化すると言わざるを得ない。ただし、
それは皮膚で隔てられた生理学的な身体ではないので、「メ
ディア間の比率の変化」と特記している。
そして、この理論に基づき、マクルーハンは「人間の自律性
を増大させることによってメディア間の相剋を減少させる可
能性がある」と演繹(予測)するのである。