さて、上記のマクルーハン理論を踏まえて、メディアとしての インターネットについて考察してみよう。
まず最初に確認しておかなければならないことは、「インター
ネット」はコンピュータのネットワークであるということ。当
たり前のことであるが、これは人間関係や組織機構のネットワー
クではないのだ。そして、コンピュータに備わっている基本法
則として、「入出力の要求」がある。たいていの場合、「入力」はキー
ボードあるいはマウスから行われ、「出力」は画面か紙上に表
出される。もちろん、ディスクのファイルへの書き込みも「出
力」の一種であるが、そのディスクファイルは上記どちらかの
形で「出力」されないとその存在さえ認識できないわけである
から、ここでは触れないこととする。つまり、使用者に対する
この「入出力の要求」、これがコンピュータの宿命であり、し
たがってインターネットに必然的に付随することになる。
さて、この入出力をわれわれの身体の立場から言えば、キーボー ドを介した操作は「指先の出力」であり、画面上の情報は「視 覚への入力」となる。すなわち、当たり前のことだが、身体の 立場からの入出力は、コンピュータの入出力と相補的に結合し て循環ループを作る。だから、コンピュータは「指の拡張」で ありかつ同時に「眼の拡張」でもある。私がコンピュータに向 かって指先を操作するとき、私の意識は画面を操作するわけで、 それは同時に自身の視覚の操作とも言える。と、同時に、指先 の動作は視覚から誘発されたものと考えることもできるのだ。 画面を見ながらブラインドでキー入力するとき、それがただ英 文字を打っているだけならば、自身の神経系を介した「視覚→ 中枢→指先」という統合作用だと考えることもできるが、その 字句を日本語に変換するとき、少なくとも私は「キーボード→ コンピュータ→画面」という「相手方」の中枢神経系も、その 文書作成に貢献していると感じてしまう。このような指先と視 覚の感覚の相補性は、両手を合わせているときに、右手が左手 を「触って」いるのかそれとも左手に「触られて」いるのかを 区別できないのと似ている。
ともあれ、このような「一体化」は大型コンピュータの時代に
は顕著ではなかったのだが、1980年代のパソコンの普及ととも
にコンピュータは身体の一部となったのだ。そして、右手と左手の掌ではさん
だバスケットボールを私たちが「ボール」と感じるように、指
先と眼で挟んだコンピュータ入出力を私たちは「現実」と感じ
る。もちろん、それを「仮想現実」と呼ぶことは可能だ。でも
いったいそれを「仮想」だと言い張ることができるのだろうか。
たとえばこんなものがある。ゲームボーイという携帯用テレビ ゲームの「ミニ四駆」というソフトである。高々5センチ四方 のモノクロ液晶画面に向かって子どもたちは両親指を操作し、 様々なコース設定と対戦相手に合わせて自分のミニ4駆のパー ツを組み合わせ、「Ready-Go」の合図に合わせて「車」を発進 させる(スタートボタンを押す)。あとは、画面上の車が勝手 にコースを走り、(時にはコースアウトすることもあるが)ゴー ルに向かうのだ。ただそれだけ。先にゴールすれば対戦相手か らお金(もちろん、画面の中の仮想の金)をせしめることがで き、それでまた各種のパーツを購入できる。様々なパーツは自 分のゲームボーイのメモリ上に保管されているが、通信ケーブ ルを介して(現実の)友達のパーツと交換することもできる。
いったい、これのどこが現実なのか?単に5センチ四方の二次
元空間に、実際のミニ4駆を模しただけではないのか?確かに
そのとおりである。でも、それじゃぁ、本物のミニ4駆はいっ
たい現実なのか? …そう、もちろん、現実である。なるほど
それは、本物の4駆を真似たものともいえよう。しかしながら、
それは、子どもたちの共同社会(空間)において、確かな現実
なのだ。だからこそ、ゲー
ムボーイのミニ4駆も決して「仮想」なのではない。
さて、問題はインターネットである。自分の指先と眼とがコン ピュータを介して閉じたループを形成するとき、そのコンピュー タの入出力関係に応じた「現実」が生起する。自分専用のコン ピュータを使っているだけなら、それは、自分だけの現実だし、 夢と呼んでも良い。つまり、その閉じたループは自身の拡張と は言っても、まだ自分一人の身体だから。それが、インターネッ トで様々なコンピュータと接続されたとき、そこにはまた別種 の「現実」が生まれる。そしてまた、自分の指先の操作が他人 の眼に通じるとき、そこにはまた別種の「人間関係」が生まれ る。
... ドアを開けてクローゼットを出ると居間だった。中 で寝ている人たちの目を覚まさないように、そっとうしろ手 にドアを閉める。居間は西海岸風味の幻想空間で、ぎっしり 詰まった本棚に、荒石組の暖炉があり、南側の壁に面した窓 からはプールが見える。プールサイドに出ようと思って南に歩いてみた。「あなた、 本気で板ガラスの窓を通り抜けたいと思っているんですか? ましてや、南東側にすてきなスライド・ドアがあるっていう のに・・・」全能のソフトウェアからたずねられる。 ...
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いったい、これは、なんなんだ。確かにこれを「仮想現実」と 呼ぶのはたやすい。でも、自分の指先と視覚を通じる神経系が 他人と混じっているとき、その共有空間での「現実」をいった い誰が否定できるのだろうか。おそらくそこには、ポケモンや ミニ4駆以上の現実がある。そして、インターネットの適合者 たちは、深夜に机に向かいながら指先と眼とをその現実に接続 するのだ。そして、地球上に広がって空間を吸引するインター ネットというメディアは、そこに参加する全ての人々の共通の 神経系となる。
「電気の時代に、われわれは全人類を自分の皮膚としてまとって いるのである。」